その時だった。黒い閃光が二つ壁を走っていくのを俺は視界の隅でとらえた。やつらは編隊を組んだかのように平行して娘のほうへ向かっている。このままではまずい。
「おい、そこ離れろっ」
「え?」
俺は状況を必死に目で訴えかけるが、娘には届かない。そもそも、いつも通り目が合わない。
そうこうしているうちに、ぶりんぬは危険な領域に辿り着いていた。
…まずい、娘の背後にっ。
「伏せろっ」
「きゃあっ」
煙の弾丸は、二匹のぶりんぬの身体を見事にとらえ、俺の勝利は確定した。二匹は徐々に力を失っていき、やがて壁から剥がれ落ちた。背中から落ちた二匹は身体をひっくり返し、再び戦闘態勢に入った。まだ戦いは終わっていないようだ。悪役魂の旺盛な二匹である。と思えば、やはり効き目があったのだろう、みるからに走る速度は落ちている。やがて力を失っていき、じたばたと跳ねて回っている。これはもう時間の問題だ。
おおおおっと娘が歓声をあげる。娘の視線の先には「帯」の字みたいなぶりんぬが床に落ちている。用意していた二枚重ねのティッシュですくいあげる。体温など微塵もない。それでも、それを握りつぶしてしまわないように、小さめのレモンを持っているようなつもりで空間をつくる。後ろで、ありがとう、と小さく娘が呟く。バタン、と扉が閉まる音がする。俺はどこか英雄のような思いがした。
リビングには、少し遅めの夕食が並んでいた。今日に限って、ひじき煮や酢昆布といった黒光りするようなものばかりが食卓に並んでいる。箸を持ち直して、さっきの光景を気にしないようにして食べる。ひじき煮は無事にひじき煮だったし、酢昆布は無事に酢昆布だった。それらを食べ終わる頃、娘がリビングに走りこんできて、キッチンで片づけをしている妻に対して、手伝う! としきりに言いだした。それに対して妻は、もうほとんど片しちゃったよ、と微笑んでいる。繰り返される他愛のない話、時々どっと押し寄せる笑顔の高潮。この二人は本当に仲が良い、と思う。舞台に美しい二人がたっていて、しがないサラリーマンの俺はわざわざ入場料を払って一生懸命にこの光景をみている。そんな気がする。別に舞台に上がることができないわけじゃない。上がり方がわからないのだ。その舞台は既に完成していて、そこに余計なものが必要ないように思える。だから、何て言って上がればいいのかわからない。でも、缶ビールはもう空だし、あちら側に行く理由はある。重たい身体を持ち上げて、舞台に上がっていく。
「あ、さっきのぶりんぬ、二匹もいたのっ」
俺の存在に気付いた娘が、ちらりと俺をみて、妻に楽しげに話している。妻は布巾でキッチンの水滴を丁寧にとっていく。
「そうなの、大変だったねぇ」
「パパがね、一発でやっつけてくれたの」