8月期優秀作品
『ヒーローショー』利基市場
最近、ぶりんぬのことばかり考えている。ぶりんぬは娘と俺を繋ぐ架け橋であると同時に、共通の敵でもある。倒さなければならない対象であるが、容易く倒してしまうのは躊躇してしまう。ぶりんぬたちを一網打尽にするアイテムは売られているが、断じてそれを使うことはなく、一貫してスプレー派である。そうでなければ意味がないのだ。
踏切の前で取り出したスマホが、そのタイミングを知っていたかのように震える。妻からのラインだったが、その文面からして送り主は娘だろうとすぐにわかった。
『ぶりんぬ、出た! パパ、すぐに帰ってきて!』
ぶりんぬ。娘はゴキブリのことを「ぶりんぬ」と言う。娘曰くゴキブリの濁音が嫌いなの、と言っていたが、呼び名に「ぶ」が生き残っている点でその問題はまるで解決していない。ある日、ぶりんぬの「んぬ」はどこから来たのと訊くと、かわいいからいいじゃん、とかえってきた。やはり、問題はまるで解決していない。
『ゴキジェットはまだあるの?』
カンカンカンカン、が鳴りやみ、一歩前に足をだす。すると、すぐにスマホが震えた。
『まだあるよ、はやく』
こういう時は、射られた矢のように返事が速い。その必死さでぶりんぬも退治できないのだろうかと思う。今、娘はスマホを片手に、自分の部屋に帰ることができず、リビングで左へ右へ慌てふためいているところだろう。
普段は全く娘と話なんてしない。俺が帰ってきても、ちらりともこちらを見ずに、妻のスマホをいじっている。あるいは、テレビに釘付けになっている。もしくは、パソコンに夢中になっている。そのどれかだ。たまに妻の家事を手伝っていて、手伝いながら親子で談笑する姿はひどく眩しい。俺は家庭を持っているはずなのに、よその家庭の一場面をのぞいているような、そんな錯覚に陥る。
どれだけ娘に好かれようと考えても、どれだけ娘にかっこいいところを見せようと思っても不可能な作戦ばかり思いつく。だから、俺はぶりんぬを退治するほかないのだ。奴を退治することによって、ほんのひとときの称賛を得て、満足するしかないのだ。
「ただいま」
「パパ! こっち」
靴を脱ぐ暇も与えてくれないほどに、娘に腕をとられて、家の中へなだれ込んでいく。やはり、ぶんりぬが出没したのは娘の部屋らしい。自分の聖域が侵されない限り、わざわざ連絡をよこさないだろう。
娘が自室の扉を開くと、見慣れない景色が広がっていた。知らない服が散乱しており、知らない家具がどっしりと構え、知らない人形が新たに入居している。こんばんは。どうも、このうちで父親やっているものです。
前に娘の部屋に入ったのは、前にぶりんぬが出没したときなので、一年前になる。一年も経つと、見知らぬものがたくさん増えていてもおかしくはないなと納得をする。たぶん、次に娘の部屋に入るのは、次にぶりんぬが出たときなので、また見知らぬものが増えていることだろう。