一晩かかって検査をして出た結果は脳梗塞だった。右に麻痺が残るかもしれないと言われた。脳梗塞というと、いきなりドーンと倒れるイメージがあったのだが、殆どの場合はそうではないらしい。もっと早く知りたかった。
前兆があったに違いない。三日前、いや一日前にでも受診しておけば。気分が悪くなったとき、すぐに脳梗塞を疑っていれば。救急病棟に運ばれてからの待ち時間がなければ。何もかもが悔しく、時計を逆に回したくなることばかりだ。悲しい、悔しい。そればかりを考えていた。
周子は実母との縁が薄い。死別でもなければ、生き別れでもない。家の中に母はいるものの、四肢を思いきり伸ばして、それをまるごと包んでくれる、そんな愛情を感じたことがないのだ。
母にとって、愛すべき子どもは選んだ子であり、それは兄でしかなかった。母と心が通ったことも、無条件の愛情を向けられたこともない。
これは自分に限ってのことだろうかと、自問しながら育った。今でも答えが出ない。テレビドラマで見るような母親は、実在するのだろうかと疑問に思うことが多かった。母以外の母を知らないので、自分を可哀相だと思うことはないが、不思議に思うことは多い。
喧嘩や、相談事ができる母親、そして、「今日はカレーが食べたい」と甘えられる母、時に孫の様子を見に来て、一緒に台所に立ってくれる母、そんな母親は、どれも周子にとっては架空の物語の登場人物でしかない。
母の料理というのも、ある時期から殆ど食べたことがない。母にとって、炊事は娘の仕事で、姉と周子は中学生になると炊事当番を受け持った。母が作るのは、兄を喜ばせたいときだけだった。理由は未だにわからない。
だから雅男と交際するようになってからは、驚くことばかりだった。いつでも遊びにおいでと言われ、雅男につれられて行くと、いつでも炬燵台いっぱいに料理が並び、それが須藤家の日常だった。
桶いっぱいの散らし寿司は、つやつやとしていて甘酸っぱく、何度もおかわりをした。一升も炊き上げる鶏ご飯は、ガス釜が沸騰してしばらく待つと、香ばしいおこげの匂いがした。
甘鯛の唐揚げ、豚肉の照り焼き、モツと玉ねぎの味噌煮込み、葉わさびの醬油漬け――、何を食べても幸福の味しかしなかった。
ずっと、誰かがこしらえたものを食べる生活から遠ざかっていた。すぐに、この家の人間になりたいと思うようになった。こんなふうに、食卓をいつもいっぱいにする母になりたかった。
結婚してからは、義母と台所に立つのが楽しみになった。筍の塩漬け、大量のらっきょう漬け、梅酒や梅干し作りも手伝った。市場に買い出しに行き、トロ箱いっぱいの烏賊を捌いたこともある。
もう、あの夢のような生活は終ったのだろうか。半ば信じられずに、眠りについた義母を見た。義母も自分も、同じだけ年月を重ねた。だが、義母の二十年の方が速く感じたはずだ。それを見ずに過ごしていたことに愕然とする。
元々小柄な人ではあったけれど、こんなにも小さくなっている。瞼や口元をよく見れば、あれからどれだけの歳月が過ぎたのかすぐわかるのに、どうして今まで気づかなかったのだろう。