雄太君が腕を掻きながら、「工場の中は暑いし、蚊もいたよ」といった。
「スポットクーラーを置いてはいるんだけど、あれだけ広いとな」おじさんはヘルメットを壁に掛けながら、「そのかわりといったらなんだが、この部屋は、社員のために、蚊取り器と消臭芳香剤を置いて、部屋の温度も、随分、下げているから、気持ちいいだろ」といった。
「うん、気持ちいい」雄太君が、今度は目を擦りながら、「目も何か染みたよ、しかしおじさんたちって、すごいね」といった。
「本当、すごいよ。工場の中に一日もいたら、髪の毛は油で固まり、鼻の穴は真っ黒だぞ。それに、夏の今は、暑いし、臭うし、蚊もいるし、もう大変だよ」おじさんがいった。
雄太君は目を擦り続けている。美咲も、目に違和感があり、瞬きを何度もしている。
「二人とも顔を洗ったら」とおじさんが、洗面所へ案内してくれて、「これで、手と顔を洗って、口はこれで、ブクブクすると、気持ちいいよ」と二つの容器を各々、指差した。
美咲が洗面所から事務所に帰ると、おじさんがオレンジジュースを出してくれていた。
いわれるままに、事務所の小さな応接セットのイスに座ると、おじさんが美咲の顔を覗き込んで、「働くって、大変だろ」と訊いた。
美咲は何もいえず、あごを引いた。
おとうさんの話が出ないことを祈っていた美咲。しかし、隣に座っていた雄太君が、「山本のおとうさん、仕事は何してるの、こういう工場?」といきなり、訊いてきた。
「ち、ちがう。ふ、ふつうのサラリーマ……」美咲は口ごもった。うそをついた自分。頬が強張っているのが自分でも分かった。
「どんな仕事でも大変だけど、ここは特に大変だよ。給料もそんなに出せないけど、みんな、本当によくやってくれているよ。すばらしい職人さん達だよ」おじさんが言葉に力を込めた。
なぜ、自分はうそをついてまで、おとうさんの仕事を隠したのか。
目の奥には、おとうさんの丸い背中が焼きついていた。
口はスッキリしたけど、鼻の奥にある機械油の臭いは離れない。
耳の奥では、規則正しい機械の音「ガシャ、ガシャ、ガシャ」が鳴り止まない。
おとうさんは毎日、ここで私たちのために……。
前かがみの仕事、それで丸い背中になったんだ。
事務所にも「ガシャ、ガシャ、ガシャ、ガシャ、ガシャ」が小さいながらも聞こえ続けている、気がした。
その時、おとうさんの淋しさが突然、美咲にも聞こえた。
「私、帰る!」美咲が急に声を出す。
「どうしたの?」雄太君が首を傾げる。
「今日やらないといけないことがあったの」と美咲はいうと、立ち上がり、おじさんに頭を下げ、「ありがとうございました」といって、出口に向かった。
事務所を、一歩出ると、すぐに涙があふれた。「おとうさん、ごめんなさい」
鉄が錆びた色がおとうさんの血に見えた。
美咲は家路を急いだ。家の前に着くと、おかあさんが玄関から出てきた。