男が土間の戸を開けたとき、つんとした磯の臭いが鼻についた。
甚平姿に行李を背負ったその男は、辺りを見渡すと小さくため息をついた。
思ったよりも簡素なところであった。
左右の棚には色とりどりのろうそくがずらりと並び、そのどれにも何らかの絵が描かれていた。男は二三歩進むと、それらのろうそくのうち一本を手に取ってみた。
そこには、生き生きと泳ぐ海中の魚の様子が描かれていた。
その筆遣いは見事なもので、障子戸の向こうから漏れ出る薄明かりもあいまってか、まるで生きているかのような錯覚すら男は覚えた。
ふいに声が聞こえ、男は顔を上げた。
障子戸の向こうで光が揺らめくと、それに合わせるかのように老夫婦のささやきが聞こえてくる。
「…みなみのほうから来られた方で…。」
「…怖がることはありませんよ。」
「きっと良くしてくれますよ。」
そうして、小さな影はゆらゆらと動いた。
…件の娘はその障子戸の向こうにいるようであった。
迷っているのか、なかなか姿を現さない。
男はふところから舶来ものの懐中時計を取り出すと、それをちらりと横目で見た。…ここに来てから、十分程の時間が経っている。
(なあに、じきに出て来るさ。)
男は、懐中時計を懐に戻すと土間に座り込んだ。
次いで煙管を取り出し、火をつける。
(なにせ、今生の別れになっちまうだろうからな。)
そうして、男は二服三服煙草を吸うと、紫煙を吐き出し、それを見ながら静かにほくそ笑んだ。