小説

『桜桃の色の朝陽』柿沼雅美(『桜桃』太宰治)

ツギクルバナー

 あとで食べようと思って洗って置いたばかりの桜桃が、ぼとぼとっ、と音を立てたのを聞いて、私はキッチンからテーブルを覗いた。椅子におとなしく座ってこっくりこっくり眠りそうだったえれながテーブルの上にぶんぶんと腕を投げ出して暴れている。
 私は開けたばかりのタッパーを閉め、えれなのそばへ駆け寄った。えれなは何がおもしろいのか、きゃあきゃあと急に笑い、手を私に伸ばして腕をバシバシ叩いた。
 はいはいはい待ってたのねぇごめんねぇ、と言いながら、飛んでしまっただろう桜桃を目で探した。桜桃を入れていたプラスチックのお皿はちょうどソファーの上にさかさまに転がっていて、テレビのそばのフローリングの上に、桜桃が蛍光灯に照らされていくつもてらっと光っていた。
 妊娠してから急に、なぜか桜桃が食べたくてしかたがなかった。値段も高く旬な時期も短いため、外国産のいわゆるチェリー缶詰で我慢していたが、缶詰でよければ一年中売っていたためほぼ毎晩サクランボを食べていた気がする。うるうるつるつるとした見た目と歯を立てたときに表面がパツンと破れる感触、甘ったるかったり酸っぱかったりが混じりあっている匂いがたまらなかった。その後、子供を生み落としてもなお、桜桃が食べたいという欲求だけは残った。
やかんが沸騰して湯気がシュウシュウと鳴っている。ピーピーいうやかんを買わなくてほんとうによかった、ソファとフローリングはえれなにごはんを食べさせて寝かしつけたらすぐに片付けよう、と思いながら私はキッチンへ戻った。
 キッチンからえれなーえれなー、と声をかけて頭を出したり引っ込めたりすると、えれなは遊んでいると思い込むのか機嫌がよくなる。背伸びをしたり話しかけたりすると手元に気が向かず、すりおろし器に親指を擦ってしまいそうになる。でもいいのだ、えれなの機嫌が大事だから。
 

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