小説

『桜桃の色の朝陽』柿沼雅美(『桜桃』太宰治)

 誰も大変なのだ、みんな大変なはずなのだ。それなのになぜこんなに自分だけ切羽詰まったような感覚になってしまうのだろう。いつからこんな気持ちが自分を支配するようになって、一体いつまで続くのだろう。そう考えると、涙があふれて嗚咽をもらしそうで、もらそうものならおそらく止まらず、赤ん坊のぎゃん泣きなんて比にならないくらいの声を上げてしまいそうだった。この子がいなければ、と思うことさえある。この子がいなければ、私は美容院にも行けるしネイルも出来るし保育園で子供の名前しか分からないようなママたちと当たり障りのない挨拶をしなくてもすむし、映画館に行け、海外旅行に行け、ゆっくり試着をして服を選ぶこともできる。
 この子がいなければ、いや、聡史と結婚しなければ、今も三年前と同じようにお互いに仕事の話をし、たまに外食をし、舌を絡ませたキスをしながらセックスをし、気だるい幸せな朝を迎えることだってできたのかもしれない。
 そんなことを考えてしまう自分にまた嫌気がさし、えれなにか聡史にか神様にか誰かに申し訳ない懺悔したい気分に駆られ、一体何がしたくて何をしてきてこれからどうすればいいのだろうと宙ぶらりんになり、もはや自分が救いようのない人間に思えてくる。
 「聡史も仕事大変だもんね」
 目の前のこの人だって大変なのだ、と自分に言い聞かせていた。
 「大変だよそりゃあ。半年前に上司が新しく引き抜きで来たっつったじゃん?」
 うん、と食べ終わった皿を片付けながらうなづいた。 
 「なんか根本的に変えるとか言い出してさ。そりゃあうちは小さな広告代理店だから大きなとこから来た人の指示に従うのは当たり前なんだろうけどさ。うちはうちでさ、ずっとやってきたお客さん相手に売上考えながらも時代に置いてかれないような提案してきたわけだよそれなりに。それをさ、開拓が足りないとか言い出して、積極的にコンペとかに出るようにって言い出してさ、プレゼンの準備にどれくらい時間かかるか分かるだろうに、そこに注力したら今までのお客さんに時間割けなくなるじゃんか」
 うん、と蛇口から水を出して返事をする。
 

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