小説

『幸せは、みかんに包んで』沙月あめ(『蜜柑』)

 八月の終わりは夏の終わりだ。日差しは温かく、私を取り巻く空気はぼんやりと蒸し暑い。けれど、吹く風はほんのわずかに冷気をはらんでいる。きっと、午前中まで降っていた雨のせいだ。風がびょお、と吹き抜け、私の頬をかすめる。薄手のジャンパーを羽織るくらいがちょうどいい。寒さなど感じていないはずなのに、それでも心がすうっと冷たくなって、指先がカタカタと震え始める。それを隠すように、なだめるように、支えるように、指先を絡めぎゅっと結んだ。
 深呼吸し、重い扉を自重で押し開ける。夏の終わりの匂いが消え、肩身が狭くなるような居心地の悪さが私を呑み込む。いたるところに観葉植物が置かれ、折り紙で作られた花や動物が壁一面に貼られている。院内は静かで、皆一様に黙り込んでいる。けれど、皆どこか幸せそうに見えた。それが厭わしくて、恨めしくて、いたたまれなかった。隅のソファにひっそりと腰かけ、横のラックから適当な雑誌を取り出し広げてみるが、内容は入ってこない。無理にでも何かに集中したくて、でもできなくて、不安に押しつぶされそうで目をぎゅっと瞑った。
どのくらいそうしていただろうか。沈黙を破る騒々しい声が突如として耳を貫く。子どもの声だ。それがこちらへ近づいてくるのがわかった。目を開けると、腕に赤ん坊を抱いた母親が、私の前に腰かけようとしていた。横には五、六歳の少女がいて、赤ん坊の顔を必死に覗き込み、何度も何度も大きな声で赤ん坊に話しかけている。その甲高い声が耳に障り、意図的に顔をしかめる。赤ん坊は少女の声など気にせず、しばらくの間すやすやと眠っていたのだが、突然、逆鱗に触れたようにぎゃん、ぎゃんと泣き始めた。顔を真っ赤にしてよだれを垂れ流し、手足をばたつかせて暴れている。それはまるで、姿の見えないなにかに必死に抵抗しているようだった。少女を遥かに上回るその金属音のような声が院内に響き渡り、私の心臓をぶるぶると震わせる。母親は、私やほかの来院者に気を遣ったのか、「すみません」と軽く頭を下げ、声をかけたりゆすったりして赤ん坊をあやしている。困ったような、疲れたような表情をしていたけれど、でもわずかに笑みを含み、そこにある優しさや愛おしさといった雰囲気がまさに「母親」らしくて、それもまた私を責めているみたいで、見ていられなくて、閉じかけた雑誌に再び視線を戻す。けれど、赤ん坊はちっとも泣き止まないし、少女はこの場に似つかわしくない声色で赤ん坊に話しかけているし、母親はたまらなく柔らかい声で赤ん坊をなだめるから、やはりその存在を強く意識せざるを得なかった。
お願い、泣き止んで。私を責めないで。あなたも、そんなふうに「母親」を見せつけないで。私は、あなたのようにはなれないのよ。やめて、やめて、やめて。
 そうやって独り戦いながら、私は再び目を瞑り、自分の名前が呼ばれるのをただじっと待ち続けた。

 
「おめでとう。いま、三か月よ」
 待合室の地獄から解放されたのも束の間、中年の快活そうな女医が無神経に言った。彼女に悪意なんてこれっぽっちもなく、私の妊娠を本当に喜ばしく思っているのだとわかった。だから無神経だと思った。おめでたくなんかない、心の中でそうつぶやく。
「予定日は……四月一日、かな」
「四月、一日……」
 かわいそう。
 この子どもはクラスの中で一番年下になるんだ。あと一日でも遅く生まれたら、クラスで一番年上なのに。

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