小説

『幸せは、みかんに包んで』沙月あめ(『蜜柑』)

 そんなことを、あたかも他人事のように考えている自分にぞっとする。お腹の子が生まれてくることを前提に話している自分の厚かましさに呆れ、馬鹿らしくなる。この子どもがクラスで一番年下になるのか、はたまた一番年上になるのか、そんなことはすべて私の決断にかかっているというのに。

「いいわね、いい季節に生まれるね」
「え?」
「冬も終わって暖かくて、お母さんもきっと楽よ」
「あ……」
「桜も咲いているかもね」
「えっと……」
「おめでとう」

 いや、私、産みません。
 そう言おうとしたけれど、言葉にはならなかった。

 
 子どもができたと知ったとき、とにかく嬉しかった。これで、なかなかその気になってくれない彼と一緒になれると思った。トイレから出て真っ先に携帯電話を取り、一番初めに彼にかけた。数コールして「もしもし」という彼の低い声が聞こえ、無性に湧き上がる喜びに震えながら、ただひたすらに話した。この幸せをいち早く彼と共有したいという一心だった。嬉しい。おめでとう。ありがとう。なんでもいい、感動に溢れた言葉が欲しかった。彼もきっと喜ぶと信じて疑わなかった。しかし、それは私の幻影にすぎなかった。数秒の沈黙の後、彼は言った。嘘だろ、と。その殺伐とした声に、心臓が、ひゅっとなった。
 父親が不倫して家庭を捨て、それを機に母親が酒に溺れるようになってから、彼はずっと一人ぼっちで生きてきた。放任され、愛を知らずに育った彼が「まだ親になる覚悟がない」と言ったとき、それが責任を放棄していい理由にも、彼を擁護する理由にもならないとわかっていたはずなのに、妙に納得できた。なに馬鹿なこと言ってるのよ。責任取ってよ。あなたは父親なのよ。私がもう少し心の自立した立派な人間だったなら、私はおなかの子のため、彼を怒鳴りつけていただろう。でも私は何も言えないままで、何を言うべきか、当時はそれすらもわからなかった。ただひとつだけ気が付いたことは、彼は私のことを、はじめから愛してなどいなかったということ。分厚い茶封筒を差し出し、首を垂れる彼に、かつての彼の甘い言葉や仕草が重なる。幻はゆっくりと溶けては消えていき、最後にはまるで知らない人を見ているような気持ちになった。やがてなにもかもがどうでもよくなって、なにもかもなかったことにしたいと、強く、思った。
 だから、親になる覚悟がないという点では、私も彼と同じだ。かつてあんなに嬉しかったはずの自分の子を、いまでは邪険にしている……こんな私が母親になんてなれるわけがない。偉大だった母のようにはなれない。私が六つのときに父が亡くなってから、母は女手ひとつで私を育ててくれた。決して裕福ではなかったけれど、経済的な面で人から馬鹿にされたことも、苦労したこともない。それは母の自己犠牲と覚悟から成り立つ暮らしだった。母は来る日も来る日も仕事に追われ、色落ちした髪を後ろで無造作に結び、化粧は最低限で、服は何年も着ている古いものばかりだった。新しいものを買うように勧めても「私はいいのよ」と言って笑い、私の頭を撫でた。そうやって母は最期まで、私のことばかりを優先した。なぜ母はそこまでして、私を育ててくれたのだろう。何を原動力にしていたのだろう。そこまでして育てた娘が、こんな人間になって、どんなことを思うだろう。軽蔑するだろうか。がっかりして、産まなければよかったと思うだろうか。いや、あるいは――。

 
「……ありがとうございました」

1 2 3