小説

『望郷』太田純平(文部省唱歌『故郷』)

 閑静な住宅街の曲がり角を折れて、狭い一方通行の道を歩いていた。電信柱に留まっていた蝉がジジッと鳴きながらどこかへ飛んで行く。吹き出る汗。もわっとした熱気が先の見えないアスファルトの上でゆらめいている。これだから夏場の営業は辛い。
右手に続いている建物がちょっと気になる。「学校っぽいな」と眺めていると、案の定、飾り気の無い裏門が見えてきて、門扉のところに「中学校」とあった。くたびれたクリーム色の壁に四階建ての校舎。
 ビジネスバッグの持ち手を替えて、ピタッと脚に張りついた背広のズボンを直すと、ふとピアノの伴奏が聞こえてきた。すぐに唱歌の「故郷」であるとピンときたのも束の間、生徒たちと思われる瑞々しい歌声が三階の辺りから降ってきた。
 私は思わず民家と校舎の狭間で立ち止まった。この曲を聴くと、どうしても自分が中学生だった頃のことを思い出す。中学三年生の夏。技術や美術など自分が好きな教科を選べる「選択授業」で、あえて男子の少ない音楽を選んだ時のことを――。

× × ×

「ハイハイみんな集まって~」
 ピアノの前で須賀先生が言った。音楽室には生徒が二十人。元からピアノを囲んでいる真面目な生徒が、教室の後ろで遊んでいるヤンチャな連中に目を向ける。
「コンクールも近いんだからちゃんとやろう?」
 再び須賀先生が注意をしても、髪色の明るい女子生徒たちは地べたで胡坐をかいて聞く耳をもたない。二十人のうち、たった四人しかいない私たち男子生徒も、机と椅子をくっつけて、親指を立てたり下げたりする指遊びで盛り上がっていた。
「みんなでやるから合唱なんだよ?」
 先生が言うと、おしゃべりをしていた女子生徒が「じゃあ先生が歌えば?」と茶々を入れた。「ウケる」と、彼女たちの間で笑いが起こる。
 すると先生は諦めたのか、ピアノの椅子に腰を下ろして、唱歌「故郷」の伴奏を弾き始めた。真面目な生徒たちが慌てて前を向く。黒板に書かれた「課題曲『故郷』」の文字は薄っすらと消えかかっていた。
「う~さ~ぎ~お~いし、か~の~や~ま~」
 歌い始めた生徒たちは、すぐに楽譜から顔を上げて動揺した。先生が本当に歌い出したのだ。それも、生徒たちをリードするような声量ではない。独唱といってよかった。「マジで歌ってるし」と後ろの女子生徒たちが手を叩いて笑う。男子たちも遊びを中断してニヤニヤしていたが、私は一人、先生の美声に圧倒されていた。その衝撃は、授業を終えて教室に帰ってからも続き、頭の中から、須賀先生の歌声が離れなくなってしまった。

 
 コンクールが近い、ということもあって、学校が無い日も音楽室に集まることになった。コンクールは学区内の中学校のみで行われる小規模なものだったが、観客には親をはじめ、一般のお客さんが入るということもあって、さすがに休む生徒は少なかった。
 夏の暑い日だった。開け放たれた音楽室の窓際で、男子のボス格である猿山が私に訊いた。
「お前さ、なんで選択授業で『音楽』選んだの?」

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