小説

『望郷』太田純平(文部省唱歌『故郷』)

 先生が会計を終えると、私は罪滅ぼしのように荷物を持ちながら、ありがとうございますではなく「すみません」と先生に言った。先生は笑顔で「いいのよ」と答えた。「それより溶けちゃうから急がないと」と先生が言って、二人とも、ちょっと速足になって学校へ戻った。
その途中、私はようやく気付いて、先生に訊いた。
「あれ? 先生のアイスは?」
「ううん。私はいいの」
 先生は笑顔で答えた。

 
 昇降口はおろか、休日の学校は廊下さえ涼しくなかった。階段を上る先生の額には拭いても拭いても汗が滲み出ていた。
三階の廊下に戻って来た私は、吉報を届けにやって来た郵便配達人というか、ちょっと誇らしいような心持ちで音楽室の扉を開けた。すると、その時だった。
「!?」
 教室には生徒が半分くらいしかいなかった。少なくとも男子は一人もいなかった。
 私と先生が入って来るなり、椅子に座っていた真面目な女子生徒たちが立ち上がって、弱った顔をした。まるで、出て行った生徒を注意できなくてごめんなさい、とばかりに。
「イェーイ!」
 ふと窓の外から声が聞こえてきた。私と先生が窓に近づいて覗き見ると、一階にあるちょっとした広間のところで、男子と女子がバドミントンをしていた。ラケットはきっと体育館で練習中のバドミントン部から借りたのだろう。猿山と桐沢が男女ペアになってダブルスをしていた。
「困ったわねぇ」
 私の横で先生が呟いた。もはや先生の片腕として活躍したい私は、それを聞くなりすぐさま「自分、呼んで来ます!」と、持っていたアイスを机に置いて、廊下へ飛び出していった。
 猿山たちを呼び戻すのは簡単だった。連中は現金なヤツらで、「先生がアイスを買って来てくれた」と伝えるなり、我先にと階段を駆け上がって来た。
「アイスは!? アイス!」
 猿山たちが目を輝かせて教室に戻って来た。しかしこんな時でも女子の一部は、あれが食べたかったこれが食べたかったと文句を言った。それでも先生は「溶けないうちに早く食べちゃって」と、微笑ましく私たちを見守ってくれた。

× × ×

 あれから、私たちはコンクールで「故郷」を歌った。課題曲のほかに自由曲もあったけど、選曲がなんだったか忘れてしまった。それくらい「故郷」のほうに熱が入っていた。
 いずれにせよ私たちは入賞できなかった。当然の結果といえば当然だった。だけど面白いのが、あのアイスの一件以来、さすがの猿山たちも先生への悪口は控えめになって、なんだかんだみんなでピアノを囲んで練習した。そして最後は誰一人欠けることなく、二十人で「故郷」を唄いきったのだ。
 私は知らない中学校から聞こえてくる「故郷」を聴きながら、ふと、そんなことを思い出したのだった。
 心地よい歌声が降り注ぐ中、私はアスファルトの道を再び歩き出した。
 須賀先生。
 先生はお元気でおられるだろうか。
 気付けば私も生まれ故郷を離れ、都会でこうして一人、働いている。

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