小説

『望郷』太田純平(文部省唱歌『故郷』)

 先生はピアノから立ち上がると、何か生徒たちを数えるような感じで見ながら、教室から出て行った。真面目な女子生徒たちは水分補給や談笑など緊張の糸をほぐしていたが、私は一人、バツが悪かった。後ろの机に戻る気もなかった。それで、何となく先生の後に続いて廊下へ出た。
 先生はてっきりトイレにでも行くのかと思ったら、三階の階段を下りて行く途中だった。私が追いついて、先生にどこへ行くのか尋ねると、先生は「ちょっとコンビニに。アイスでも買おうと思って」と答えた。私は反射的に「じゃあ、自分も」と言って、先生の後に従った。

 
 校舎から出ると、夏の鋭い日差しを全身に浴びた。私と先生は、中学校から徒歩五分くらいのところにある、地域密着のマイナーなコンビニに向かって歩き始めた。
「暑いわねぇ」
 ハンカチで首元を拭いながら先生が言った。先生は決して美人ではなかった。歳は四十手前だろうか。丸い眼鏡をかけていて、教科書に「滝廉太郎」が出て来た時は、女子生徒から似ていると茶化されて、あだ名が「滝」になったこともあった。
 そんな先生とは、今までプライベートな会話はおろか、授業中だってほとんどしゃべったことが無い。むしろ批判的なグループの一員だった。その自覚があるからこそ、私は先生と肩を並べて歩くのが申し訳ない気持ちがした。しかし先生は、そんなことを気にする様子もなく、朗らかな態度で私に接してくれた。
「あの曲、どう思う?」
「え」
 突然、先生が私に質問してきた。
「あの曲。『故郷』」
「あ、あぁ。まぁ、イイ曲ですよね」
 私が答えると、先生は「ねぇー」と同調して、声が明るくなった。
「私、あの曲が本当に大好き。だからコンクールの課題曲がアレに決まった時、本当に嬉しかったの」
 先生の熱量とは対照的に私は「へぇ」とか「はぁ」とか短い相槌を打つので精一杯であった。それでも先生は喜々として続けた。
「私も実はね、結構、田舎から出て来たの。おウチのどの窓を開けても山が見えるような、そんな田舎だった」
 先生が田舎から出て来たというのは何となくイメージ通りだったけど、そんなことを私に打ち明けたことはかなり意外だった。
「だから、あの曲を聞いてるとね、故郷が懐かしくて、いつも涙が出そうになるの」
 そう言って先生はハンカチで額の汗を拭った。私は咄嗟に教室を飛び出して、先生の後を追ってよかったと感じた。貴重な話を聞けたから、というより、何となく先生を一人にしないでよかったと思ったのだ。
 そうこうしているうちにコンビニに着いた。先生は入店するなりカゴを取って、アイスのショーケースの前に立った。
「好きなのを選んで」
 先生が私に言った。私が遠慮がちに迷っていると、先生は次々とカゴにアイスを入れていった。「みんな好き嫌いがあるもんね」と言って、ほとんど全種類のアイスを取っていった。私は一番安いやつを選んだ。

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