小説

『うみの子』鮎谷慧(『赤い蝋燭と人魚(新潟県上越市大潟区雁子浜)』)

 雪が降っている。はらはらと、空が剥落するように。  

 男は南の生まれで、元来雪というものに縁がない。初めて見る雪に思わず足を止め、鼠色の空からとめどなく落ちてくる白い欠片を不思議そうに眺めていた。
 足を止めると、それまで気が付かなかった疲れが、どっと襲ってくる。思えば街道沿いの宿場を出て、もう二時間ほどこの山道を歩いている。それほど険しい道でもないが、二十歳そこそこの今に至るまで町人暮らししか知らない男にとっては、もはや疲労の限界であった。
…どこかで休める処はないか。
 見回してみても、人工物の気配はない。考えてみれば、山道に入ってから茶屋の一つも見かけなかった。山間部に暮らす人にとっては、日ごろから通う造作もない山道。その上、街道筋でもない。当然腰を掛けられるもの、まして茶屋などあろうはずもなかった。
 男は軽いめまいを覚えながらも、痛む足を引きずり再び歩き始めた。

 しばらくすると、雪は緩みはじめ、重量をもって男の肩をたたき始めた。みぞれ、という言葉も知らず、男は自身を濡らすそれを恐怖した。
…宿場の主人は赤ら顔で「漁村はすぐそこだ」といった。
 男は記憶の中でぼやけ始めている宿場の主人を詰りつつ、山を越えるということにもっと危機感を抱くべきだったと後悔しはじめた。空も男の後悔に呼応したのか、みぞれは男も知っている雨に姿を変え襲い掛かってきた。
…こんなに寒い中で濡れネズミになっては命に関わる。
 男は来た道をひき返すべきか、先を急ぐべきか思案した。
…引き返したとしてもまた二時間ほどかかる。夜半に濡れそぼって宿を求めれば、あの宿場の主人のことだ。足元を見て吹っ掛けてくるだろう。

 暮れ始めた雨空に不安を抱きつつ、男はため息交じりで先を急ぐことにした。

 雨が男の襦袢をも濡らし始めたとき、ついに山道は緩やかになり、そして下り始めた。やっと頂上か。男はそう安堵したが、それと同時に、また同じだけ下るのかという恐怖が頭をもたげた。
 すでに夕方の六時を回った頃だろう。じきに夜がくる。「夜というもの」がくる。男にとって、雨というものが、そして夜というものが、こんなに恐ろしいものだと感じられたのはこれが初めてのことだった。
 思わず叫びだしそうな自分を押し殺し、男は眼下に広がり始めた行く先を見渡した。ゆるやかに下る斜面の向こうに、海が見えた。夜闇と雨の向こうで、それでも確かに空や木々とは違う粘性をもって、海は黒々と男を待ち構えていた。
 
 男は悲鳴を上げた。

1 2 3 4