小説

『あれはきっと、同じ月』草間小鳥子(『やまんばのおはなし(福岡県糟屋郡志免町)』)

 そういえば琴音とは月を眺めてばかりだ。
 赤信号で立ち止まり織子は思った。一日のうち織子が立ち止まる時といえば、信号待ちくらいのものだった。朝は五時ちょうどに跳ね起きてその日の夕食を仕込み、洗濯機を回しながら琴音の幼稚園の弁当と朝食の支度。琴音の手を引いて家を飛び出し、幼稚園へ送り出してからそのまま駅まで走って電車に滑り込み、スマホでじゃがいもや洗剤を吟味しながら人波に流され、オフィスでパソコンの電源を入れるのが八時半。ランチへ出かける同僚を背中で見送りながら顧客データとにらみ合い、五時半ちょうどに挨拶もそこそこにオフィスを走り出る。琴音を延長保育から引き取り、夕食、入浴、ようやく布団をかぶせ電気を消すまで、落ち着くということがない。
 それでも、立ち止まるとつい考えてしまうから、そんな時間はない方が良い、と織子は思っている。日々の細々としたやりくりだとか、琴音を急かしてばかりなことへの反省だとか、漠然とした将来のことなど、考えずにすむ方が。
 琴音とは月を眺めてばかりだ。
 横断歩道を駆け抜け、幼稚園へと続く遊歩道を突き進みながら織子はなおも思った。自分の感情を見て見ぬ振りすることには慣れていたが、たった一人の家族である琴音について考えるたび、織子の感情は揺さぶられた。息を吸うと胸の奥が痛み、咳払いをする。
 幼稚園の行きと、帰り。織子と琴音が同じものを見つめているのは、その時間だけだった。行きには、まだ薄闇の残る明けた空の端に薄紙のような月を、帰りには、団地の隙間からのぼりはじめた赤みがかった月を、琴音は指差し、
「ほら、月」
 と織子を見上げた。
「うん、月」
 答えたものの言葉が続かず、織子は琴音の腕を引き寄せ歩みを早める。もう少しだけ、時間があったら。時間じゃなくてもいい、余裕があったら。今日は幼稚園でどんなことをするのか、お弁当は美味しかったか、友達と何をして遊んだのか、琴音が喋りたくなるような言葉を掛けてあげられるのだろうが。

「お母さん」
 琴音の声で我に返り、立ち止まっていたことに気づく。歩道橋の二、三歩先を行く琴音が、黒目がちな瞳で織子を見つめていた。早く大人にならなくてはならなかった子どもの目だった。朝、前髪につけたはずのヘアピンがなくなっている。何色かセットで買っておいたはずなので、琴音が寝てから探せばいい。トレーナーの袖から、手首がだいぶのぞいている。冬になる前に、ワンサイズ大きめのものを用意したほうがいいだろう。すでに膝小僧が寒そうだけれど、衣替えは今週末。おろしたばかりのスニーカーのつま先が泥だらけなのは、運動会の練習の時期だからだろうか。それとも、縄跳び。いや、琴音は鉄棒と言っていたかもしれない——。
「お母さん」
 もう一度呼ばれ、
(いけない)

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