小説

『あれはきっと、同じ月』草間小鳥子(『やまんばのおはなし(福岡県糟屋郡志免町)』)

「母さんが何を言いたいかというと」
「うん」
「母さんが仕事から戻るまで、絶対に扉を開けないこと」
「誰が来ても?」
「誰が来ても。それから」
「うん」
「どんな時も、かならず織子は誰かに愛されて、見守られていること」
「それがお月さまでも?」
「それがお月さまでも」
 こんな月を、前にも見た。何度も見た。織子はベランダの柵にもたれ、月へ手をかざす。いつか、琴音と私のところへも金の鎖が下りてきて、ここから引っ張り上げてくれるだろうか。
(お月さま、どうか見ていてくださいね)
 月からの返事はない。
 織子は夜空へ背を向けた。早く眠らなくては。夜が明ければ、また慌ただしい一日が始まる。琴音とのかけがえのない時間を犠牲に、自分はなぜこんなに走ってばかりなのだろう。考えても仕方のないことを、それでも織子は考えてしまう。理由はわかっている。理由はわかっているのだが、うまく納得がいかない時がある。納得しようとしまいと、明日はやって来てしまうのだ。もう一度琴音の額を撫で、やわらかな髪に顔を埋める。ほのかに日向の匂いがした。愛されている子どもの匂いだ、織子はそう思うことにした。ひとつ大きなため息を吐き、織子が鼻まで毛布を引き上げたちょうどその時、琴音がしずかに瞼を開いた。織子は目を閉じていたので、そのことは知らない。

 琴音とは月を眺めてばかりだ。
 いつもより一本遅い電車から走り出、大慌てで改札にぶつかりながら、織子は思った。年の瀬が迫り、日々の仕事は忙しさを増していた。
 公園からの帰りだろう、ボールや縄跳びといった遊び道具を抱え、父親や母親に手を引かれた琴音と同じ年頃の子どもたちとすれ違う。琴音と織子の住む町には、駅のほど近くに児童公園がある。アスレチックに野球グラウンドまで備えた広い公園で、まだ織子が仕事を始める前、よく琴音とピクニックへ出かけた。もう、遠い昔のことのようだ。この遊び疲れた子どもたちのように、陽のあたる場所で時間を気にせず過ごさせてやることができたら、どんなに琴音は喜ぶだろう。
 幼稚園の秋の作品展に飾られた、琴音の描いた絵を思い出す。「夏休みの思い出」という題材で、海やキャンプなど賑やかな絵が並ぶなか、琴音の画用紙には、手をつなぎ月を見上げる琴音と織子の姿が描かれていた。画用紙いっぱいにはみ出すほどの見事な満月だったが、織子の心は複雑だった。夏休みの間、琴音は機嫌良く預かり保育へ通った。「お出かけしたい」とも言い出さず、朝は薄紙のような月を、夜にはのぼりはじめた月をにこにこと指差した。だからといって、琴音が本当にそれで満足しているなどと、織子には思えなかった。織子自身、母親には黙っていたことも多かったからだ。いつか織子が何気なく言った、
「あいちゃんのお母さんは、お洋服を作ってくれて、トシくんのお母さんは毎日おやつを手作りしてくれるんだって」
 という言葉に、母親がはっと顔を上げ、それから少しだけ傷ついた顔で笑ったことが忘れられない。織子が早く大人になろうと決めたのは、たしかその時だった。琴音は、織子とよく似た目をしている。織子は咳払いをし、鈍い胸の痛みを散らす。それでも目の前がかすかに曇り、東の空にのぼりはじめた満月がにじんだ。

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