小説

『うみの子』鮎谷慧(『赤い蝋燭と人魚(新潟県上越市大潟区雁子浜)』)

 ただ恐ろしく、子供のように海から逃げ出そうと踵を返し走り始めた。
 激しさを増す雨脚を縫って、男は必死で藪の中に逃げ込んだ。

 少しも走らぬうちに、男は木の根に足を取られ倒れこんだ。雨粒を吸い込んだ枯葉が、刺すような冷気を伴って男の全身を包む。息を切らし、男はただ祈るように顔を上げた。誰か助けてくれと。

…お堂がある。
 男は目前の奇貨に喜ぶこともできず、ただそう口に出した。しばし呆けた後、慌てて立ち上がると、古ぼけたお堂の中に転がり込んだ。雨脚は依然として強く、もはや豪雨と言ってもよい程になっていた。

 鼻先から雫をたらし、男は息を整えながらあたりを見回した。お堂の暗さに目が慣れてくると、ぼんやりと衝立や机が見える。お堂というよりは、集会場のようなものだったのだろうか。男は手探りで着物を解き、すっかり濡れそぼったそれを床に投げ出した。びちゃり、という重々しい音がする。
 多少床が軋むものの、打ち捨てられたような腐食の気配はない。参道は藪に覆われていたが、お堂の中は荒れていなかった。雨漏り一つしてないことから察するに、建立された当時は大切にされていたのだろう。闇に溶けかかっている立派な梁の輪郭を認めると、男は安堵してつぶやいた。
…今日はここで寝てしまおう。

 衝立の陰に石油ストオブを見つけた時も、燃料が僅かに残っていたことにも、男はもう感謝も感動もすることはなかった。
 元より男の一族は、男自身も含めて信心などない者の集まりだった。寺も社も区別なく、なんの関心も抱かない者ばかりで、男の叔父も、怪しげな香具師として日本中を飛び回り、人魚を売り飛ばす旅の途中で海難事故にあって死んだという。遺体のないまま行われた叔父の葬式で、男の母はそう嘲って冷酒をあおっていた。

 男はストオブに火をつけようと、お堂の中を物色した。不思議なことに、燃えさしの蝋燭や短くなった蝋燭の芯ばかりが探る手のひらに感触を残した。
 やっとのことで燐寸をみつけると、男は震える手で慎重に擦り、ストオブに火を入れた。
 石油の灯が明々とお堂を照らし、穏やかな熱が体を包む。男はほっと息をついた。そして、照らし出された壁面を見て愕然とした。お堂の壁はいちめんに燭台が打ち付けてあり、そのすべてに、真っ赤な絵付けが為された蝋燭が並んでいたのだ。ストオブの灯を受けて、白い蝋燭の影が翻っている。男は思わず立ち上がると、手近な蝋燭の一本に近づいた。濁った乳色の中で、朱色の魚や海藻が、きらめき、揺蕩っていた。

 とても美しい。

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