小説

『彼が持つ宇宙』蒼(『銀河鉄道』)

「数学には詩がある。ひとつひとつ丁寧に優しく辿っていくと、宇宙に繋がる。数学にも宇宙にも僕は詳しくないですが、ただ言えることがあります。それはどちらも見えないところで深い関係を持っているということです」
 インスタントコーヒーの香りが漂う職員室で、紺色の眼鏡をかけた男性教師が、私にそう言った。彼は化学を担当する非常勤講師で、担任を受け持つ教師よりもゆったりとした時間を過ごしている。私があまり生徒が来ない空き教室で寝ているところに、休憩時間に入った彼が後からやってくることがしょっちゅうあるが、彼は私を一度も起こしたことない。必ず決まってインスタントコーヒーが入った個人用のマグカップを片手に、校庭を微笑みながら眺めている。何を見ているのか、何回か訊いたことがあるけれど、きちんと答えてくれたのは一度だけだ。ほかは返ってくるのは笑顔だけで、詳しいことを知ることはできなかった。彼とはたまに会話もする。相手が教師なのもあり、内容は学問的なことが多い。それでも私が彼と会話をする理由は、他の教師たちのように頭ごなしに説得してくることや、叱ってくることがないためだ。それに加えて彼と話していると、ほんの少しだけ世界の一部を垣間見た気持ちになり、心地が良くなることも理由の一つだ。特に文化祭に近づいてきていたあの日もそうだった。

「そろそろ文化祭が始まりますね」
「ああ……、もうそんな時期ですか」
「菅野さんは、参加しますか」
 特に深い意味はないのだろう、と日向先生の目の奥を覗きこんで勝手に判断する。日向先生の目はこちらの心を見透かすような感じがするので、覗きこんでもいつも逸らしてしまう。今日もつい反射的に逸らしてしまった。あの目で校庭の何を眺めているのだろう。
「する気はないです」
「そうですか」
 日向先生は目をゆっくりと閉じ、湯気が出ているインスタントコーヒーに口づけた。今は十月の終わりなので、肌寒い。私も何か温かいものを水筒に入れて持ってくればよかったかもしれない、と今頃になって気がつく。椅子二つを使って寝転がって見えるのは、染みがついている天井と、空気が薄くなってきているからか、色素が抜けて見える景色と、無地の眼鏡フレームをかけた日向先生だった。日向先生の持っているマグカップの背景は白で、そこに黒猫が描かれている。派手な色や柄の物を身に着けないことだけはなんとなく分かった。私はゆっくりと上体を起こし、かかとを踏みつぶした上履きをはく。上履きの色は赤、黄色、緑と信号機のように三色に分かれている。私は二年で、赤だ。今年度は黄色が一年、緑は三年というふうに決まっている。
椅子から体を離し、開いている窓辺まで歩くと、カポッカポッという音が小さく鳴った。日向先生が視線を向けていた校庭を見ると、運動場には誰一人いない。見えるのは、運動場に残された複数の足跡と、乱れた砂の跡だ。
「なんだ、何もないじゃないですか」

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