小説

『キス疑惑』太田純平(『接吻』)

(1)

 会社の先輩と二人で飲むはずだった。残業を終え会社を出て、たまには鍋でもと店を探していたら、偶然あの子に出会った。
「あれ? お疲れ!」
「あぁ、お疲れ~」
 彼女はちょうどバイト終わりとみえ、居酒屋の脇に停めた赤い自転車のキックスタンドを蹴った。
「なに? 早上がり?」
「そう、ヒマだったの」
 彼女の名前は西崎歩美といって、女子大の四年生である。ここの居酒屋でアルバイトをしていて、常連客として通う内に仲良くなった。
「俺らね、今から飲み行くとこ」
「へぇ、イイじゃん」
「……」
 ここでスマートに「よかったら一緒に飲まない?」と言えないのが俺の性格の全てである。彼女は自転車の向きを変え、ゆっくり押し始めた。すぐに「じゃ」と去らないところに何か機運を感じながらも、口の中でもごもごと伝えたい気持ちを弄ぶ。俺は歩美が好きだが、まだ告白はしていない。夏からグズグズしていたら冬になった。彼女は就職も決まっていて、もうじきバイトも辞めるという。彼氏彼女と決着をつけず、店員と客という居心地の良い関係でいられるのも、あと――。
「よかったら一緒に飲まない?」
出し抜けに先輩が彼女に言った。無論、先輩も彼女とは知らない仲じゃない。
「いいっすよん、別に」
OKサインを頬っぺたにくっつけ答え、歩美は再び自転車を居酒屋に停めた。

(2)

 彼女の誕生日が近いことはもちろん知っていた。プレゼントだってもう買ってある。土日を挟むから、ちょうど明日にでも店で渡そうかと思っていた矢先だった。こんなことならブツを鞄にでも忍ばせておくんだったなと、二杯目のハイボールを空にして思った。
 歩美の店で飲むのもアレだなと、そこらの海鮮系の居酒屋に入った。彼女は自分の店で賄いを食べてきたそうで、注文は今のところビールが一、二、三――。
「枕営業なら喜んで」
 ふと先輩のパワーワードが耳に飛び込む。春から保険の営業員になる歩美に向けて言ったのだ。俺は魚が泳いでいる水槽を正面に、刺し身のつまに箸を伸ばした。
「今度合コンしよ! てかして!」
 先輩が歩美に手を合わせる。五年付き合っている彼女がいるくせに。関係はすっかり冷めきっているというが、記念日にはちゃっかり有給を使う。
「ちょっと、お手洗いに――」
 先輩の話を遮るように言って、俺は席を立った。酒は弱くはないが強くもない。いい加減、俺のグラスが空なことに気付いてくれよという気持ちも若干あった。

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