小説

『キス疑惑』太田純平(『接吻』)

 右に左にと廊下を歩いて男子トイレに入る。小便器を前にして真っ先に思ったのは、先輩が邪魔だということだった。俺は決して女子が苦手というわけではないが、ああやってトークの主導権を握られると何も言えなくなる。先輩は無論、俺の気持ちは知っている。なのにアレじゃああんまりだ。アシストどころかパスさえ回って来ない。
 洗面台で手を洗い、このままじゃイカンと鏡に向かって頬を叩く。さっきから先輩の独演会だ。三杯目から下ネタも増え始めた。ここは俺がしっかりトークの手綱を握り、歩美を守ってやらないと――。
 決意を新たに廊下へ出る。通路を一本間違え、変なところをぐるりと回ってしまった。平日ともあり客はまばらだ。ええっと、水槽があそこだから、俺の席は――。
「――!?」
 戻って来た刹那、俺は青く硬直した。先輩と歩美がキスをしていた。いや、厳密には、キスをしていたように、見えた。歩美に覆い被さるような形で、先輩が彼女の唇に迫っていた。気配に気付いてか、ほとんど同時にこちらを向く。強い顔で咄嗟に離れる。先輩は「チッ、なんでい」とでも言いたげに自分の席へ、歩美はその場で注文のタッチパネルに手を伸ばした。
「いやいやいや」
 ようやく俺は何かを言った。とはいえ続きが出て来ない。場が凍る。俺は熱い。歩美が何か注文しようとする。先輩がそれを止めるように「そろそろ」と虚空に呟く。歩美が俺を見る。「会計」と言う。それから二分と経たずに店を出た。

(3)

 一晩経っても胸を衝く重い痛みは消えなかった。
「倉田さん」
 男に名前を呼ばれてハッとする。
「社長室行きの荷物の中に、懸賞ハガキ混じってましたけど」
 太っちょメガネの派遣社員にミスを指摘された。「けど」で終わるあたり実に嫌なやつだ。ここは大手出版社の郵便室で、俺や先輩を含め六人の派遣社員が働いている。届いた郵便物をひたすら仕分け、午前と午後に一発ずつ社内に配る。悪くない仕事だが未来は無い。
 今日も下駄箱のような棚に郵便物を仕分けてゆく。集中はしていない。脳裏をよぎるのはやはり昨日のあの場面だけだ。キスをしていた。していない。していた。していない。郵便棚の仕切りがフローチャートのように見えてくる。あれが一度目のキスなのかとか、彼女は少しでも抵抗したのかとか、分岐する材料は幾らでも浮かんで――。
「倉田」
 また名前を呼ばれて振り向く。先輩がいた。
「よっ、昨日はお疲れ」
「……」
「昨日あの後ダイジョブだった?」
「え?」
「ちゃんと帰れた? お前も昨日は結構飲んだろ?」
「いや、別に――」

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