小説

『無敵の蠅取りばあさん』サクラギコウ(『貧乏神と福の神』)

 私の住む町内に朽ち果てそうな家がある。住んでいるのは78歳の藤波久江さんというお婆さんだ。町内の人はこの家をゴミ屋敷と呼んでいる。ゴミは玄関先まであふれ、積みあがったゴミ袋で出入りができない状態だ。
 それらの苦情を受けるのが町内会長である私の父だ。父は民生委員もしているため何かと頼みことが舞い込む。
 久江お婆さんのことは父にとっても頭のイタイことだった。ゴミを片付けるという話し合いの交渉には全く応じようとしない。取り付く暇がないというのが実情だ。役所の人が来ても同じだった。
「家の中をどうしようと勝手だ」というのがおばあさんの言い分だ。確かにゴミは門から外へはみ出すことはなく、不思議なことに臭いも気にならない。
 久江お婆さんの家は今でこそ古くて崩れそうだが、昔は立派な建材を使い、腕の良い大工さんが仕上げた良い建築だったようだ。もともとはこの辺一帯の地主で、事情で手放した土地に次々と家が建ち住宅地となった。
そのため久江お婆さんは町内では最も古い住人だ。家があれほど酷いことになったのは10年ほど前からで、それまでは古いけれど立派な日本建築だったという。
 息子が1人いるが大阪に住んでいて、この家には寄り付かない。
 父はときどき、進展しないトラブルにへきへきして「いい加減で誰かに代わってもらいたいよ」とぼやくことがあるが「他にいないので、お願いします」と頼まれ、役所の人にも「横田さんが辞めたらこの町内は誰が守るんですか」などと言われ、結局また引き受けることになる。人が良いというより、煽てに弱いのだ。
 町内の人々の言い分は、近隣の地価にも影響を与えるというもので「十分迷惑をしている」と主張する。特に夏になると蚊や蠅、その他小動物の心配までして、やいのやいのと父に訴えに来る。息子の許可を取り、強制的に取り壊せという人までいる。
 役所の人が言うには久江お婆さんは蠅取りの名人らしい。いつも蠅叩きを手に持ち、見つけると瞬時に仕留め、蠅を取らしたら右に出る者はいないと豪語し「うちには蠅は一匹もいない」と自慢しているという。
 私は蠅叩きというものを見たことがない。40センチほどの棒の先に10センチくらいの長方形の網がついているものだと父が教えてくれた。

 ある日、郵便配達の人が父を訪ねてきた。この辺一帯の配達を担当している人で我が家にも配達に来てくれる。優しそうで人のよさそうな25~6歳のお兄さんだ。父に頼みごとがあると言った。
「あの家に郵便物?」
 久江お婆さんの家に届いたのは書留だった。受領印をもらわないとならないのだ。郵便配達のお兄さんは、以前あの前を通っただけで怒鳴られた経験があり、怖くて一人で行かれないのだと言った。父は「しょうがないな~」と言いながら、もう靴を履いていた。父はこの手の頼みごとに弱い。「あなたが必要だ」は殺し文句なのだ。

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