小説

『無敵の蠅取りばあさん』サクラギコウ(『貧乏神と福の神』)

 お兄さんの動揺ぶりを見て、これでは捺印して貰うなんて無理に違いないと思った。おどおどしているお兄さんに代わって父が説明した。 
 お婆さんは無言で書留郵便をちらりと確認すると「待ってろ」と言って家の中に入っていった。お婆さんは玄関からは入らない。庭に廻り廊下のガラス戸から家に入った。
 暫くすると印鑑を手にして戻って来た。
 郵便配達のお兄さんは父にお礼を言い仕事に戻っていった。
私と父は無言で家に戻った。私は見ていただけなのに疲れがどっと出た。その上お婆さんの蠅叩きを見損なったことに気づいた。

 夏のある日、町内で事件が持ち上がった。蠅が大量発生したのだ。町内の人は誰もが発生源はあのゴミ屋敷だと思った。
 住民に頼まれた父がお婆さんの家に行くと、確かにゴミ屋敷周辺に蠅が発生していた。だがお婆さんは「家ではない!」と頑固に否定した。
 父が庭に入らせてもらい調べると、生ごみが見つかりそこから発生していることが分かった。ゴミはすぐに撤去したが、発生した蠅は周辺の住居へと散り始めていた。
 ところがお婆さんが激怒した。所狭しと積み上げられているゴミ袋の中身は食品の袋や、発砲スティロールの皿や容器だからだ。生ごみは庭に穴を掘りそこに入れている。入れた後は土を被せるので、蠅や臭いの心配はないと主張した。確かにゴミ袋の中身を調べると、納豆の容器や卵のパック、菓子の袋やコンビニでの容器などだが、どれもきれいに洗ってある。
 生ごみは誰かが嫌がらせで投げ込んだ可能性が強くなった。
 父はこの件でお婆さんとこれ以上対立をすることを避けるために、希望者には町会で消毒薬の噴霧を行うことにした。
 しかし悪いことは重なる。消毒剤の噴霧でアレルギーや皮膚疾患が起こったという訴えが出てきたのだ。
 反対にお婆さんの家の蠅はあまり見られなくなった。見つけると蠅叩きでやっつけるからだ。
 私はその瞬間を目撃している。蠅はどこかに止まったときに狙われる。止まったら最後なのだ。気配を消して、止まっている蠅の30センチぐらい上に蠅叩きを移動する。狙いを定めたらシュッと一瞬の一撃を与えるのだ。100発100中だった。
 私は手を叩いて「凄い!」と声に出していた。お婆さんがこちらを見た。
また怒鳴られると思った。
 でも久江お婆さんは怒らなかった。しかもちょっと嬉しそうな顔をした。お婆さんはきっと、文句を言われることはあっても褒められることなどなかったからだと思った。
 私たちは外から投げ込まれた生ごみをお婆さんのゴミだと決めつけた。それなのに父も町内の人たちもまだお婆さんに謝っていない。
 私は代表して頭を下げた。お婆さんに「濡れ衣を着せてごめんなさい」と言った。

 家に帰って「おおかみがぶり」の絵本を探した。
「お婆さんはがぶりだよ、きっと寂しんだよ」
 父は「そうだな」と言った。迷惑ばかり掛けられていると被害者意識を振りかざし過ぎたかもしれない、と照れた。
 父も頭を下げるとお婆さんは驚くほど大人しくなった。
 次の日からお婆さんに町内の蠅退治をお願いしてみた。一匹ずつやっつけてもたかが知れているという人もいたが、消毒薬が使えない以上他に方法がなかった。
 お婆さんはぶつぶつ言いながらも満更ではなさそうだ。父と似ていると思った。評価され煽てられると、垣根なんて簡単に飛び越える。
 お婆さんは毎日町内を巡回しながら蠅退治をするようになった。蠅は着実に少なくなっている。最初は引き気味だった住民もお婆さんの見事な蠅叩きの技に感心するようになっていった。

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