小説

『かぐや姫として生きてみる』吉田大介(『竹取物語』)

「そうだ、俺はかぐや姫であった。」
 今年四十歳になった和志は、この節目にふと思い出したかの如く、自分が竹取物語でいうかぐや姫のように月の世界から四十年前に地球に派遣され、大和の国は武蔵世田谷、代田の私鉄沿線に住まう中流サラリーマン家庭の世帯主として籍を置いていることを、いまさらながらに思い出し、改めて実感している、というシチュエーションに浸ることで、毎日の生活の飽きを往なすことに決めた。一月十二日、誕生日から五日を経た日のことであった。
 はなから自分の設定したこのシチュエーションには矛盾があるのは承知。まず和志が世田谷に来たのは結婚してからという事実。自分の出身は新潟市である。新潟市と言えば、今では全国十何番目かの政令市だが、未だ大半にとってのイメージは田んぼ、米、酒、スキー、雪。東北や九州と並ぶ「田舎」の代名詞の一つであろう。東京出身の同僚に言わせれば、ありがちに、「おまえ故郷があるってうらやましいべ。」しかし、和志に言わせると、「東京に生まれていればまた違った人生だったろう。」
 友人はやたらに新潟を褒める。四十になった今となれば、それが世辞であり、どこかいい部分を見つけて相手を尊重する大人の気廻しであることはわかり、かと言って、自分も素直に故郷の良さを認めない訳ではなく、最近の和志は堂々と、「新潟出身です」、「米と酒で日本の食を支えてるんですよ」くらいに言うようにしている。
 いや、しかし今から、和志の故郷は新潟でなく月なのだ。外見も全く「姫」ではないが、いずれは月からの使者が来て、帰らねばならない立場にあるのだ。勝つか負けるか、自分がかぐや姫的人間になりきり世間に対峙する、というシミュレーションを日々行っていくことを和志は自分に課す。
 例えば今から、まあ今は夜中だが、明朝、井の頭線に乗る。渋谷へ向かう。宮益坂の会社に行く。それでも俺はかぐや姫だ。月から来ているが、四十年経っており、全く誰の目にも普通の日本人。おやじ、ひげ面、短足、猫背。何か特殊能力でも持っているかと言えば、日本語教師養成講座の四五〇時間受講修了証くらいのもので、スポーツも、楽器も、そろばんも苦手、今も外国人とも教育とも関係ない、交通専門業界紙の平社員だ。口も臭い。それでも俺はかぐや姫だ。
 包茎ではないものの、皮は半分戻り、かぐや姫からは程遠い存在。電車に乗っていてもスマホ片手に金髪をかき分けるギャル女子高生に疎ましがられているのが空気の伝導でわかる。中年男に対する理由のない軽蔑の視線が頬の辺りに刺さる。「俺はかぐや姫だぞ」と心の中で彼女に対し怒鳴ってみるが、むしろどう見ても先方こそがどちらかと言えば「姫」だろう。

1 2 3 4 5 6 7