小説

『かぐや姫として生きてみる』吉田大介(『竹取物語』)

 電車を降り、一斉に改札口へ向かう群集。自分が月の世界に召されていく時にも、これくらいの規模の帝の軍勢が、それを阻止しに追ってきてくれるだろうか。いずれにせよ、その大団円を迎えるには、まず五人の男に惚れられなければならない。そして難題を与え、五人を振り、帝に値する人物の求婚を待つ。ここまでの条件がかなりハードだ。更に、月からの使者のために常時、足の匂いを維持しておくことも肝要か。また、天に召還される際には宇宙船のようなものが来て、船体下部からのびる光の柱にでも包まれ上昇していくのか、それとも空飛ぶ牛車のような、もしくはサンタクロースのソリのような不安定な乗り物に乗車して帰るのか。もしかしたらいつの間に着させられた平安風着物のそでがたなびき、そのまま宇宙空間を飛行していくことになる可能性もある。そもそも和志は高所恐怖症で、地方への出張に飛行機を使うときでも、離陸前から外を見ないようなるべく目をつむり、祈る形で両手を腰の辺りで強く組む。「墜落した場合、地面に機体が衝突する直前にジャンプすれば身体に衝撃が伝わらず助かるのではないか」などと考え、イメージトレーニングを行いながら着陸までを過ごすほど。空想を膨らませるほど夢がしぼみ、かぐや姫でいるためには、ずいぶんと面倒なことに巻き込まれる覚悟が要ることに気づく。

 宮益坂を上り職場のビルの玄関が見えるころには、和志の頭は仕事モードに自然と切り替わっていた。会社のデスクに着き、スーツの内ポケットから取材用のメモ帳を取り出す。いや、ない。自宅の机の上だ。そのページが開いたままかどうかまでは記憶にない。妻はもう見たか。そこだけ筆ペンで書かれた「光る骨盤」、「ルビーの睾丸」などの文字。和志は他のアイテムが何であったかを思い出す。「燕三条駅の黒つらら」というのが案外恥ずかしい。
 朝礼で、心ここにあらずと見られたか、むっとした表情を浮かべ昨日の活動報告を求める編集長、その身体に黄緑色に蛍光する骨盤、赤い睾丸、黒く垂れ下がったかりんとうのような陰茎の絵が重なり、そればかりが和志の頭から離れない。

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