小説

『樹洞』サクラギコウ(『桜桃』)

「子どもより親が大事」と言う常連客がいる。彼は会社が終わるとその脚で「志那そば亭」へやって来る。いつも無言で叉焼を肴にビールを飲み、帰っていくのだ。
「志那そば亭」はラーメン屋だが、夜の営業は居酒屋に近い。カウンター席が6席と4人掛けのテーブル席が2つあるだけの小さなラーメン居酒屋だ。麺は細い縮れ麺、スープはさっぱりとした魚介系で澄んでいる。一口スープを飲んだ時は物足りなさを感じるが、食べ進めるうちにスープの旨味が口に広がる。食べきったときその濃さがちょうど良かったと思える、そんなラーメンを出す。自家製叉焼は店の名物だ。
 オフィスビルに囲まれた店は、昼はラーメンだけ食べにくる客でフル回転だが、昼休みを挟み夕方の開店からは居酒屋状態となる。店が狭いこともあり1人か2人で来る客がほとんどだ。会社が終わりちょっと一杯飲んで家に帰る客が多くラーメンまで食べる客は少ない。

 その男は気の弱そうな優しい感じの小男だった。いつもカウンターの一番奥の席に座ると瓶ビールと叉焼を注文した。それから無言で叉焼をつまみビールを飲む。
 その日も男が一番乗りだった。いつものように奥のカウンターに座り注文し終わると、突然「子どもより親が大事ですよね?」と話しかけてきた。言葉の真意がつかめず、どう返していいのか戸惑った。「そうですね」とも「なんですかそれは」とも言えずに困っていたのだ。だから返事が遅れた。すると「子どもより親が大事、そう思いませんか?」と畳みかけてきた。
男の言う親とは男自身のことだと分かって返事を濁した。そう思わなかったからだ。それは違うと思った。親にとって子どもは大事に決まっている。その子どもより親である自分の方が大事だと自ら言う男に違和感を感じたのだ。
 その日、男は饒舌だった。近くの会社で経理の仕事をしていること。家には子どもが3人いて奥さんは4人目を妊娠していることなどを話した。
「僕が1人っ子だったから、子どもはたくさん欲しくて」
「分かります。私も2人兄弟の下でしたから、弟が欲しかったですよ」
 今は働けない妻に代わって自分が頑張っているのだという。そこまで聞き少し印象が変わってきた。自分勝手な男だと思ったがどうやらそうでもなさそうだ。

 常連客からのもらい物の桃があった。田舎から送ってきたが食べきれないのでと店に持ってきてくれたのだ。冷蔵庫で程よく冷えている。男がビールを飲み終わる頃を見計らって、素早く桃の皮をむき男に差し出した。
「お客さんからのいただき物です」
 男は小鉢に入った桃をじっと見たまま、食べようとしない。
「お嫌いですか?」
「いえ大好きです。ありがとうございます」
 桃をひと切れ口に入れると目をつぶり、果肉のジュースを絞るように口の中で数回噛み潰した。本当に好きなのだと分かるほど旨そうに食べた。桃をすべて食べきると、小鉢の底に残っている桃の汁を喉を鳴らして飲み干した。
 それから子どもの話を始めた。

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