小説

『樹洞』サクラギコウ(『桜桃』)

「思い出したんです。いつか私が桃を買って帰った時のことです。3歳だった長男坊は、その時生まれて初めて桃を食べたんです。その時の驚いた表情、旨そうな表情を思い出したんです。今は桃の季節ですか? 忘れていました。こんなに喜ぶのならまた買ってきてやろうって思ったのに、もう何年も忘れていました。妻は3人も子どもを抱えて、今お腹の中にもう一人いるから早く帰って手伝ってやらなければならないのに、どうしても途中で仕事の頭をリセットする場所と時間が欲しくてここに寄ってしまうんです。僕は自分勝手な父親です。『子どもより親が大事』って言い聞かせないと自分の中の疚しさに圧し潰されそうになるのです。だから呟くんです。『子どもより親が大事』って。でもやっぱり勝手な父親ですよね?」
 私は少しの間、答えを探した。
「男には洞が必要だっていいます」
「うろ?」
「ほら、大木に大きな穴のあるのがあるでしょう。小さい穴の場合は鳥や小動物が棲みついたりするんですが、たまに人間の子どもが入るぐらいの大きな穴のある木があるんですよ」
 私の話に男は聞き入った。
「田舎に大きなクヌギの木があって、それにちょうどすっぽり入れる穴があったんです。かくれんぼなんかはすぐに見つかってしまうのですが、私はその穴に入るのが好きでした」
「秘密基地のような?」
 秘密基地と言えるほど広くはない穴だと前置きして、誰にも邪魔されずに自分自身がリセットされて無になれるような、母親の胎内に戻るような、そんな感覚になったと打ち明けた。
「奥さんは大変だと思います。でもお父さんが潰れてしまったら、一番困るのは家族ですから、リセットの時間は必要ではないでしょうか」
 男は理解してもらったことで嬉しそうに笑顔をつくった。
 少し長居をしてしまったと思ったのか、男は時間を確認し支払いを済ませた。私は急いで冷蔵庫の中の桃を包んだ。
「持って行ってください」
 そんなつもりで言ったのではありませんからと男は辞退した。
「お子さんにです」
 引かない言葉に、桃を受け取ると深々と頭を下げお礼を言った。今どき珍しく生真面目な人なのだ。

 どういうわけか、それから暫く男は姿を見せなかった。早く家に帰っているのだと特に心配はしていなかったのだが、常連客の山田さんが気になることを話し始めた。
 山田さんは「いつもカウンターの一番奥の席に座る男」の話として話し始めた。会社が同じビルの階にあるのだという。その会社に最近刑事らしき男が出入りし騒がしい。どうやら会社の金を使い込んだ者がいるようだという。
 胸がざわついた。あの男の仕事のストレスは相当なものだと想像できる。もし悪事を働いていたのなら自分は滑稽なピエロだ。

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