小説

『樹洞』サクラギコウ(『桜桃』)

 しかしすぐに反省した。あの男がそんなことをするとは思えなかった。桃を差し出した時の恐縮して嬉しそうな表情からは計算高さなど微塵も感じられなかった。まだ分からないのだ。決めつけるのは止めよう。

 「犯人捕まったらしい」
 暫らくして山田さんが言った。
「で、誰だったんですか?」
 逸る気持ちを顔に出すまいと、できるだけ冷静な声を出した。
 あの男ではなく同僚の女性社員だったと知る。
「絶対、カウンターの奥に座るあの男だと思ったんだけどな」
 山田さんは少し残念そうに言った。気が弱そうで優しそうな男は、別の見方をすれば陰気で何を考えているかわからない男だと言われた。
 仕事のストレスを家に持ち込みたくなくて、この店で叉焼を肴にビールを飲み気持ちを切り替えて家に帰っていく。自分が潰れてしまっては大変だと「子どもより親が大事」と呟いて、ささやかな息抜きをしていただけなのだ。何も話さなくてもこの店で一杯飲んでリセットできるのであれば、これほど嬉しいことはない。

 人の噂も75日というが、一週間もしないうちに誰もその話をする者はいなくなった。
 夕方からの店開きをしてすぐのときだった。あの男が店にやってきた。少し明るい顔をしている。
「お久しぶりです」
「良いことがあったのに、ここに寄りたくなりました」
 今日はストレスの切り替えで来たのではなく、嬉しいことがあったのだと顔を崩している。
「それは、良かったですね」
 思わず笑顔で返した。男はいつものようにビールと叉焼を注文した。
「僕、小鳥遊優也といいます」
「土岐田シンです。ラーメン屋のオヤジです」
 なぜか2人は、声を立てて笑った。

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