小説

『水底のともし火』和泉萌香(『火ともし山』)

 旅の真っ只中にある詩人はその日とある湖付近の村に立ち寄りました。長らく歩いて疲れていたものですから何処かで休みたいと村のあちこち宿屋やら茶屋やらを探しますが一向にそれらしき店などは見つかりません。ひゅうひゅうと風が吹く音ばかりが扉を叩きまだお昼だというのに感傷的な気分に誘い込みます。疲れて人がうずくまったような石に腰掛け足を揉んでいると、もし、もし、と呼びかける声がしました。そこには二十歳に手が届くころでしょうか、年若い娘が心配そうに自分の方を見やっています。娘はここも前はもう少し栄えていたんですけれど、ほら戦がありましたでしょう、それからこんな死んだようになってしまいまして、生きている私どももまるで死んでいるようですわとこぼしました。千草という名の女は弟と二人暮らし、しかし弟も戦で足がもげた上に視力を失い寝たきり、千草は父から教え込まれた焼き物作りで生計を立てているのだと言います。でももう少しで私夫婦になるんですの、と千草は白い頬を紅に染めて年頃の娘らしくはにかんで微笑みました。それはめでたいことです、相手はこの村の方で、と詩人が尋ねるとええ前まではここに住んでいましたの、でも事情がありまして湖の向こう側の村に今はいるのです、もう少しすればまたこっちに帰ってきますから、そうしたら一緒にこの焼き物のお店など出して暮らすつもりなのですわと言います。千草が嬉しそうに話すものですから歌人も若い恋人たちが早く同じ屋根の下暮らすことを願わずにはいられませんでした。千草の家に泊まることになった歌人はその夜隣から聞こえるううん、ううんという苦しそうな声に目を覚まします。きっと千草の弟でしょうか、重い怪我の上夜はたいそう冷え込みますからますます痛むのでしょう、そのうなり声に合わせてそろそろと足音がして扉をひく音が耳に届き、歌人が布団をはいでてそっと覗くと千草が何やら身支度をして表に出て行くところでした。この夜更けに若い娘がどこへ行くのやら、詩人は気付かれないように後を追わんとしましたが彼女はもう夜闇に消えて姿はありませんでした。

 明る朝詩人は千草に宿の礼をし、そういえば昨日ふと夜中目が覚めてしまったのですがと恐る恐る切り出すと千草はまあ、起こしてしまったのね、ごめんなさい、実は夜はあのひとのところへ会いにゆくのです、と言います。あのひとって、湖の向こうに住む方の元へ。ええ、あのひと日が高いうちは忙しいものですから、夜に会っているんですと言う。そんな遠いところまでどうやって会いに行くのです。湖を沿って歩いてゆくだけですわ。千草は熱に浮かされたように、あのひとはとても特別なひとなんですの、どこかこの世の涯てまで連れて行ってくださるように思うんです、ねえそんな風に誰かをお思いになったことはあって、と続けるものだから詩人は照れたふりをしつつ、恋にうつつを抜かす者が抱くロマンチズム以上の響きを汲み取って足の裏が冷たくなる思いをするのでした。詩人は千草に別れを告げ再び旅路につこうとしますが、行く先の道が数日前の大雨の影響と見えてとても人が通るものではなくなっているじゃありませんか。仕方なしに詩人はその晩も村にとどまることを決め、再び千草の家に泊まることになりました。その晩も彼女はこっそりと家を抜け出し、その様子を見守る詩人に気づいてか気づかずか、恋人の元に駆けてゆきます。朝になり詩人は玄関に水がぽたぽたと、そばに水浸しの着物がかけてあるものだから驚きました。千草さん、あなたまさか昨晩は湖を泳いで渡ったのですか、はい、なぜそんな危険なことを、だって横切ってしまった方がよっぽど早く辿り着けるんですものと全くなんてことのないように恋する女は答えてみせます。詩人は村に道が開くまでの間とどまるつもりでいましたが、七日ほど滞在してもなかなか工事はすすんでいるように見受けられず、また千草という女の動向を見守るのはこれまでとは異なる詩かまたは小説を書くことができるか、そんな期待を寄せてすっかり居心地をよくしてしまいました。

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