小説

『水底のともし火』和泉萌香(『火ともし山』)

 村へ来てから十日あたりのこと、もう直ぐ月が上がろうかという時刻、厠から戻った詩人はヒイヒイというくぐもった声と肉塊が跳ね返るような鈍い音が奥から聞こえるものですから何事かと襖を開けてみると、千草が包帯でぐるぐる巻きになった寝たきりの弟の首に手ぬぐいをかけて、それでも足らないとばかりに馬乗りになり顔をぐしゃっと掴んで息の根を止めようとしているではありませんか。千草さん、おやめなさい、おやめなさいと体を引き剥がすと千草はわっと泣き出して外へ飛び出し、弟はぜえぜえと呼吸をしながら眼窩に魔の淵とばかりの異様な光を宿して、姉さん、姉さんと叫びます。千草は夜が明けても家に戻らず、詩人は二日、三日と帰りを待ちましたが、それでも姿を見せませんでした。そうしてまた一つ夜が明け表へ出ると、そこには珍しくも幾人か村人がいるじゃありませんか。詩人はふともし、あの湖の向こう側の村へ行くには、どのくらいの時間がかかるものなのでしょうかと尋ねると、村人は皆不思議そうな顔をします。あなた旅の人かね、ええそうです、向こう側には村なんてないわな、あそこは人の住めない土地だよ、と言うのです。詩人はそれを聞き、あの時千草が弟のすることを止めるのではなかった、ここではない場所へ行くことを止めるべきではなかったと立ちすくみました。詩人は息の長くない千草の弟を看取ってやり、哀れな二人の魂を弔うために湖のそばに碑を建てました。千草がここには恐れや苦しみなどないと信じて体を任せたことを強く祈り、愛の幻想と現の違いなどとはどこにあるのだろう、と思いを馳せるのでした。

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