年をとるのは嫌だ。容姿は衰え体力は低下する。なにより怖いのは死に向かって一歩一歩近づくことだ。誰も逆らうことはできない。
時間は一直線に進んでけっして元には戻らない。人間や世の中のものすべてが時間と共に老いていき古くなっていく。そして滅んでいくのだ。
60歳を過ぎると先の人生がほぼ読めるようになる。残酷なことだ。私の場合は今の会社で定年を迎え、妻と二人で小さな建売の家で時間を持て余しながら枯れて行き、やがて死を迎える。
美人でおだて上手な妻。その妻のおだてにのってがむしゃらに走り続けてきた。落語に美人の妻を持つと短命だという噺がある。私もきっと短命に違いない。
「会社の経営が苦しいのに早期退職者に選ばれなかったなんて、ありがたいわ!」
妻の麻子は満面の笑顔でさらにこう付け加えた。お決まりの一言だ。
「これは、あなたの人徳ですよ」
この言葉で私は40年間働き続けた。馬車馬のごとく。今は体も気力もボロボロだ。会社は業績が悪化し早期退職者を募った。私は妻に内緒で手を上げた。
行ってくるよ。と言って持ちあげた鞄の中には昨夜もらった餞別の品と小さな花束が入っている。結婚式の新婦じゃあるまいしブーケかよ、と冗談を言ったら
「大きな花束は持ち歩くのに邪魔かなって思いましてぇ」
と、部下だった女子社員がのっぺりとした声で言った。きっともう萎れているだろう。
昨日までと同じ時間に同じように家を出た。行き先はない。この日、妻は友人とランチの約束があり外出すると言っていた。妻が出かけた時間を見計らって家に戻ろう。今日は雲行きが怪しい。雨の中当てもなく歩き回るのは辛い。
11時過ぎに裏口からこっそり家に戻った。上着を脱ぎネクタイを外しソファに寝転んだ。いつまでもこのままではいられない。妻が戻ってきたら話そう、とぼんやりと考えていた。
うとうととしていた。玄関で物音がする。鍵を開ける音だ。娘と息子は独立し遠方に住んでいる。連絡もなく突然帰ってくるとは思えない。
複数の女性の声に交じって妻の声がした。「戻ってきた!」咄嗟に居間に隣接する納戸の中へ隠れた。
おしゃべりしながら入ってくる声がする。
「あら、ネクタイ? していったはずなのに」
しまった、ネクタイを持ってくるのを忘れた。
「さあ、今日はゆっくりしてって、主人は6時まで戻らないから」
6時? まだ12時少し過ぎだ、このままではトイレにも行けないし、今更のこのこ出て行くこともできない。困ったな。