小説

『幽刻』乃木宮稜(『変身』)

 ある冬の夜のことだった。緩やかなカーブを描く峠の道路は、救急車の喧しいサイレンをバックにそこそこの野次馬と救命隊員が集まっている。崖の下からは細い黒煙がたなびいており、ここで何があったのかを理解するには充分すぎるほどであった。乗用車だったものから運び出されたのは三十を目前に控えた男の遺体。身長はやや小柄で全身が黒く焼け焦げてしまっているが、火災事故の被害者ほど酷い有様というわけでもなく顔を見れば誰なのか分かるだろう。
 救急車に運び込まれるその直前、その男の顔が私の目に映る。毎朝よく見る顔であったが、不思議とショックはなかった。現実感が無いせいで受け止めきれてないだけだろうとも思ったが、それだけ目の前の“異常事態”は突拍子もないものだった。
――なぜなら、その遺体は紛れもなく私自身だったのだから。

 サイレンの音も人の姿も遠ざかった峠を後にした私は、自身の状態を正しく理解する必要があった。これは幽体離脱とでも言えば良いのか。それにしても身体は別に半透明でもなければ宙に浮くことも出来ない。思えば遺体を見たときに「これは自分だ」と思ったが、これだって事故直前までの記憶があるということ以外に何の根拠だってないのだ。そんな妄想に浸っている頭のおかしい野次馬のひとりである可能性だって否定は出来ない。
 そんな意味のない想像を働かせながら入ったコンビニで、少なくとも私は自分の身に起こっている異常を知ることになるのだった。

 自動ドアが開いて何と発音しているのか良く分からない気の抜けた店員の声を聞き流しながら、缶コーヒーをひとつ手に取りレジに置く。しかし目の前に立つ店員は業務を全うするわけでもなくカウンターの裏で携帯を開いている始末だった。それに少し苛立った私は思わず声をかける。それでも無視を決め込む店員にいよいよ腹が立ち、彼の裾を掴んだところで顔を上げた店員の目が私と合うことはなかった。まるで姿が見えていないかのように。声すら届いていなかったかのように。
 まさか、と思って化粧室に入った私は、誰も映っていない鏡を見てようやく確信を得るに至ったのだ。やはり自分は死んだこと。そして幽霊なんて胡乱なものに成り果ててしまったことを。何故こんなにも冷静なのか、きっと以前の自分であれば取り乱してしまうところだろうが、そこまで感情が揺さぶられることはなかった。死んでしまったときに無くしたのは肉体だけではなかったのだろう。人間的な情動も一緒に、あの崖の下に落としてしまったのかもしれなかった。
 身体は別に半透明でもなければ宙に浮くことも出来ないが、それでもこの姿は誰の目にも止まらず声だって誰の耳にも届かない。身体が疲れることもなく、鉛のような感情は精神的な疲労すら受け付けない。それでいて物にも人にも触れられる今の私を一言で言うならば、やはりそれは幽霊と呼ぶしかなかったのだ。

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