小説

『You still life』サクラギコウ(古典落語『短命』)

 妻たちは天気が悪いので、デパ地下で弁当を買って我が家で食べることにしたようだ。それにしても楽しそうな声だ。
「ご主人良かったわね、会社に残れて」
 妻の友だちの康子さんの声だ。
「うちの主人土日は一日中家にいるから、ストレス!」
 ストレスと言う言葉に共感したのか、どっと笑い声が上がった。亭主はストレスなのか?
 こんなことなら隠れたりしないで堂々と迎えれば良かった。早々に戻ってきた言い訳なんて何とでも言える。しかし隠れてしまった今、のこのこ出て行くことはできない。そんなことをしたら私のいないところで、この先何年も笑い話のネタにされるに決まっている。
「ねえ、木瓜の花が咲いたって言ったわよね!」
「見る?」
 是非見てくれ妻の自慢の花を! 鉢植えの木瓜の木が美しい花を咲かせた。3人がベランダに出れば脱出のチャンスもくる。

 納戸のドアを細く開け確認すると妻と友達2人はベランダへ出て行った。この時くらい妻の花好きを感謝したことはない。
 裏口からの脱出に成功するとベランダから見えないコースを選び、自宅からできるだけ遠くへと足を速めた。
 駅で来た電車に飛び乗った。どこ行きでもよかった。見つからずに脱出できたことでほっとしていた。

 終着駅で降りた。ふらふらと外へ出る。当てもなく歩いているうちに急に虚しさに襲われた。なぜ自分の家を逃げ出さなきゃならないんだと怒りが込み上げてきた。
 友人と過ごす妻の笑い声が蘇る。
 少し困らせてやるか。私はプチ家出を決めた。だが行く当てなどなかった。

 公園があった。知らない公園だ。ベンチに座って持っていた鞄を開けた。枯れた花束をゴミ箱に捨て、スマホの電源を切った。鞄の底に餞別の品が残っている。まだ開けてもいない。どうせちょっと高級なボールペンかシャープペンシルだろう。
「捨てるなら、くれよ」
 後ろから声がした。振り向くと老人が立っていた。顔には深いしわが入っている。何の躊躇いもなく未開封の箱を差し出した。
 老人がパッケージを開くとボールペンが入っていた。やっぱりな。
 精算で部下の女子社員が提出した領収書は某デパートのもので5,400円だった。きっちり予算内だ。花束のブーケも某花屋さんで5,400円の領収書のものだった。これも予算内だ。
 何かを期待していたわけではないが、入社2~3年で辞める社員と40年近く勤めた者への選別の品が同じだということに、軽い失望を感じた。

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