小説

『マドロシカは三度眠る 』篠崎フクシ(『眠る森のお姫さま』)

 わたしは嘗て、死のようなものを経験したことがある。
 いや、正確には、肉体の多くの機能を失った後も、死へと向かい続けていた。不慮の事故に遭遇したわたしは、いわゆる世俗的な意味での死を迎えつつあるようだった。呼吸などほんのわずかな機能だけを残し、肉体はまったく動かせなくなっていたのだ。
 まるで、悪い妖女に魔法をかけられた、古い童話の、『眠る森のお姫さま』のようだった。
 にもかかわらず、わたしは自分の肉体を〈外〉から眺めることのできる存在となっていた。病室のベッドを囲む家族は、ひとりの女の不幸を目の当たりにし、悲愴な表情でわたしに覆いかぶさっている。
 わたしは彼ら彼女らとの別れを悲しく思ったが、一方で解放された気分にもなっていた。もう、世間の荒波で闘う必要がない。ある意味、苦しみからの解放でもあったのだ。
 だから、ねえ、そんなに悲しまないで、パパ、ママ。そう伝えたかったけれど、わたしの言葉はふたりには届かなかった。傍らでわたしの手を握る婚約者は、じっと死に向かう女の顔を見つめていた。植物学を研究している彼は、まるで大切に育ててきた花を枯らしてしまったかのように、無念そうに顔を歪める。そして、花に語りかけるように、わたしに最期まで呼びかけていた。

 わたしは春の日差しを浴びた彼の温室で、変わった色や形の植物を眺めながら、微睡む。微睡みの中で、彼の声が、遠くから聞こえてくる。
 わたしの名前を呼んでいるのだろうか。
 ーー、……、カ。……シカ。
「聞いたこともないような花の名前を発見したんだ。十九世紀、大英帝国の植物学者に師事していた日本人研究者なんだけど、彼の著した論文のなかにその名の記載があった」
 熱帯植物に囲まれた彼は、頰を紅潮させていた。
「ずいぶんと古い文献ね」
 わたしは当たり障りなくこたえる。
 彼が古書店で見つけたという〈論文〉は、無名の〈植物学者〉のもので、変色した原稿用紙には几帳面そうな文字が整然と並んでいた。万年筆のブルーインクが、ところどころ滲んでいる。査読も通っていたのか分からない代物なので、わたしは眉唾だと思ったけれど、興奮する彼を傷つけないよう否定も肯定もしなかった。
「ああ、学名は〈Epiphyllum sp.〉、つまりエピフィルム属の未知の植物という意味なんだけれど、基本的にずっと眠っている。ただ、百年に三度だけ、真夜中に花を咲かせるらしい。他家受粉の必要があるからね。三度目に散ったあと、その花は一生を終える」
「月下美人、みたいな花ね。まさかその花の名前は……」
「マドロシカ」

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