小説

『マドロシカは三度眠る 』篠崎フクシ(『眠る森のお姫さま』)

 パチン、と眼の裏に電気が走ったような気がした。
 わたしの名前を呼ばれたような気がしたからだ。あれ? わたしの名前って、なんだっけ?
 死という現象は、死者自身の記憶を奪っていくものなのだろうか。わたしは自身の記憶の迷宮に紛れ込み、途方に暮れ、やがて疲労の果てに微睡む。

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「やあ、ようやくお目覚めかい?」
 彼は丸眼鏡を外し、わたしの顔を覗き込んだ。
 不思議な気分だ。わたしは長い間、眠り続けていたような気がする。
 しかし何かが変だった。彼に返事をしようとするが、声が出ないのだ。夜の闇のせいで、ここがいったい何処なのかも分からない。
「マドロシカ」
 その言葉にわたしは驚愕した。
 リインカネーション……。どうやら、わたしは死後、ヒトという存在様式を脱し、植物のそれに再受肉したようだった。身動きがとれず、身体を拘束されたような痛苦に襲われた。息苦しい。彼はそんなわたしの気持ちなどお構いなしに、じっと愛おしそうな眼を向ける。
 月明かりの下で、彼の顔がわたしの花弁に近づく。彼はわたしに触れるでもなく、ただ、花の香りを確かめるように鼻先をふるわすだけだった。
「君を捜しあてるのに、二十年もの時を費やしてしまったよ。それこそ地球の裏側まで捜して歩いたんだ。とちゅう何度も危険な目にあったけれど、こうして僕の庭で愛でることができて幸せだ」
 たしかに永い時間が経ったのだろう。月の光に照らされた彼の顔は、ずいぶん老け込んで見えた。眼鏡のレンズはひび割れ、白いシャツの襟は黄ばみ、ジャケットの袖口はほつれていた。嘗て婚約を誓ったこの男は、二十年もわたしのことを捜し続けていたのか。そう思うと、わたしの方も、嘗て彼を愛おしく思っていた頃の感情が甦った。でも、そう思う一方、この人はわたしが居なくなった後、ちゃんと所帯を持ったのだろうかと、心配になった。
「僕には君しかいないよ、マドロシカ。君以外を愛するなんて考えられない」
 わたしはどきりとする。頭の中の想念が彼に伝わったのではないかと、一瞬、疑った。冷静に考えればそんな筈はない。植物と人間が想いを交わすなど、あり得ないことだ。

 その時、空から月を背にして降りてくるものがあった。翼をもった何かが、わたしに向かって降りてくる。闇と似たような色……、蝙蝠(コウモリ)だ。奇妙な音波を発しているのか、耳が痛い。蝙蝠はわたしの身体の蜜を吸おうと、躊躇いもせず近づいてくる。
「う、うわっ、やめろ! 近寄るなっ!」

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