小説

『楽園』西橋京佑(『桃太郎』)

 タバコの煙に少しむせそうになりながら、僕は無表情を装ってナイフを振り下ろし続けた。何かの小説で「豆腐を切るみたい」と書いてあったけど、たしかに感触なんてほとんどないんだ。あたりは灰色一色だったのに、ペンキをこぼしたみたいに赤く飛沫が跳ねていく。すぐに警備のやつらが吹っ飛んできて僕を羽交い絞めにしやがった。その間も無我夢中でナイフを振り下ろしたけど、警備のうちの一人が僕の頭をガツンと一発やったおかげで、僕はそのまま気を失ってしまった。

 
「あーなんかめんどくさいな、やっぱり。絶対に揉めると思うんだけど」
 僕は、そうボヤく犬山の方を睨んだ。
「だからお前はクソ犬って言われるんだよ。なんのためにここまで来たのかわかってんのかよ」
 そりゃそうだけどさぁ、と言いながら犬山は座り込み、両手を挙げて思い切り伸びをした。
「まあさ、桃ちゃん、無理もないよ。俺だって若干しんどいよ。ここらへんでちょっと休まない?急いだってあんまり変わらないんじゃないの」
 振り向くと、猿渡も座りこんでいた。よく考えたら、かれこれ3日間くらいはほとんど寝ていない。猿渡の目の下のクマに気が付いて、僕にもどっと疲れがきた。
「まあいっか。そしたら、とりあえずなんか飲んで休もう」
 背の高い酉飼に、歩くのが一番早いから、という無茶苦茶な理由をつけて飲み物を買いに行かせた。少しアホだから、酉飼はなにも気にすることなく自販機を探しに行った。
 周りの建物は、いつ建てられたのだろう。倒れる寸前のゴミみたいな木造の家が、タケノコみたいにボコボコ生えていた。人がいないのは、電柱から垂れきった電線でわかる。鬼が島地区まであと数キロもない、らしい。ほんとにこんなところに”要塞都市”があるんだろうか?
 でも、ここになかったら、もはやそれはどこにも存在しないんじゃないかと思うぐらいに、”要塞都市”には打って付けの場所だった。暖かさとか、安心感とはかけ離れたような、冷たい空気だけがどんよりと漂っていた。日陰になったゴツゴツの石畳に座り込んで、猿渡の頭の少し上をぼんやりと見ていた。
「買ってきた」
 酉飼は両腕いっぱいに水とかコーラとかを持って戻ってきた。
「お金、いらなかった」
 なにニヤニヤしてんだよ。うるせーから早く渡せ、と僕はコーラを一本奪い取った。カポンと音を立てると、泡がボタボタと垂れる。本当に、使えないやつ。うんざりして酉飼を見たけど、あいつは必死にお茶の成分表を読んでいたから、なんとなく可哀想な気持ちになってどやすのもやめてしまった。

1 2 3 4 5 6 7 8 9 10