「お母さん、体の具合はどう?」
個室のドアを開けると、排泄物と老人特融の饐えた汗の臭いがした。部屋の中は薄暗く、無機質でがらんとしている。母はベッドの上に膝をついて座り、こちらを振り向きもしないで窓の外をじっと眺めていた。
小高い丘の上に建つ介護老人保健施設。年明け早々、母がここの認知症専門棟に入所してから三ヶ月が過ぎた。
「まだ巷ではインフルエンザも流行っているみたいだし、お母さんも気をつけないとね。まぁ、ここにいる分には大丈夫かな」
母はやっとこちらを向いて、まるで異星人でも見るような呆けた表情を見せた。狭い空間で母と二人で顔を突き合わせていると、すぐに気持ちが滅入ってくる。臭いは慣れるけれど、この気まずい時間には耐えられそうにもない。
「ここじゃ狭いし、ラウンジに行こうか」
母がかすかに頷く。私はベッドの上に無造作に脱ぎ捨ててあった手編みのカーディガンを母に羽織らせて、部屋の外に出た。ラウンジへと続く長いリノリウムの廊下を、歩調を合わせながらゆっくりと歩く。
途中、どこかの部屋から奇声が聴こえた。廊下の手すりに沿って、意味のわからない言葉をブツブツと呟きながら何往復もしている男性がいる。ラウンジの入り口には着ていた服を次々と脱いでいる女性がいて、職員にたしなめられていた。
最初は驚いたけれど、何度かここに通ううちに、どれも日常の一コマとして傍観できるようになった。
認知症専門棟であるヒマワリ棟には出入口が一か所しかなく、普段は厳重に施錠されている。母はこの限られた空間の中で、残された命を消化するように淡々と暮らしていた。
「お母さん、ほらこっち暖かいよ」
ラウンジは広く明るく、他の入居者もテレビを観たり椅子の上で居眠りしたりして思い思いに過ごしていた。私は陽当たりのいい窓際の椅子に母を座らせて、テーブルを挟んだ向かい側に自分も座った。
「ええと……あんた誰? どちらさんですかね?」
それまで何の反応もなかった母が、椅子に腰かけるなり私の顔をまじまじと見つめながら訊いた。
「もう、お母さんたら何を言っているの。娘です。あなたの一人娘の綾子ですよ」
「ムスメ……アヤコ……」
外に女を作って出て行った父と別れてから、母は女手ひとつで私を育ててくれた。私立の中学、高校、そして大学まで出してくれたことには、心から感謝している。母は定年まで教師として必死に働き、退職してからも趣味にボランティア活動にと、常に忙しく動き回っているような人だった。
そんな母がおかしいと気づいたのは、二年くらい前のことだ。
会話がうまく噛みあわない。自分が言ったことをすぐに忘れる。水道の水を出しっぱなしにする。