小説

『主よ、人の目覚めの喜びよ』微塵粉(『三年寝太郎』)

 ごと、と母が花瓶を置く音。酸素マスクの感触。消毒液のにおい。
 いつもの順序で、おれは覚醒していく。
 じんわり瞼を上げると、見慣れた病室である。ベッド脇のパイプ椅子に母が座り、スマートフォンをいじっている。
「おはよう。おかあさん」掠れた声を発すると、母は体をぎくりと硬直させ、こちらに目を向けた。驚愕に満ちた顔をしている。
「あ、あ……」わなわなと震え出し、その目にはみるみる涙が溜まっていく。
「たろうっっっ」
 ワカル?オカアサンダヨ。ワカルノ?
「わかる。お母さんだよ。わかるの」母はおれの手を握り揺すった。
「うん。わかるよ」
 オハヨウ。オハヨウ。アナタサンネンモネムッテイタノヨ。ジコニアッテ。オボエテル?オハヨウ。オハヨーー。 
「……おはよう。おはよう。あなた三年も眠っていたのよ。事故にあって。覚えてる。おはよう。おはよおお」おれは吹き出した。もう、母のセリフは一言一句違わず暗記しているのだ。おはよーおはよーって、九官鳥みたいだ。
「よっこら」覆い被さって泣いている母をどかし点滴のチューブを引き抜く。それから酸素マスクを外してベッドに立ち上がったおれを、彼女はぽかんと見上げた。体のきしみや鈍痛は感じるが、『三年振りに目覚めた体』の使い方をおれは熟知している。
 ベッドを降りて病室の窓を開ける。11階のこの病室からは、病院の中庭はもちろん、彼方にある川の土手まで見渡せる。気持ちの良い風が頬を撫でた。ぬるく穏やかな春の陽気は、どこか気持ちを高ぶらせる。
「もう、歩けるの……」狼狽した様子で母が言った。
「じゃあねお母さん」
 窓枠に足をかけ深呼吸してから勢いをつけて飛び降りた。さきほどまでの静けさとはうってかわって、物凄い風の音が耳を抉る。なるべく頭で着地するようにしなければ。一命をとりとめたりしたらその後が厄介だ。おれはきをつけの姿勢で頭を下にしてぐんぐん落ちていく。近付いて来る地面。はやいはやいはやいはやいはやいはやいはや
 切り裂くような衝撃ののち、出し抜けな暗闇が訪れた。

 ごと、と母が花瓶を置く音。酸素マスクの感触。消毒液のにおい。
 いつもの順序で、おれは覚醒していく。
 じんわり瞼を上げると、見慣れた病室である。ベッド脇のパイプ椅子に母が座り、スマートフォンをいじっている。
「たろうっっっ。わかる。お母さんだよ。わかるの」

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