小説

『犬の兵隊さん』平井鮎香(『桃太郎』)

 「どなたですか」
三着ほどの軍服を洗い終えた頃、
橋の下の草のかげに何か生き物の気配を感じたような気がして、ぶら子は思わず声を上げた。
「私は犬です」
何かは動くことなく返事をする。
「犬?犬が言葉を喋りましょうか」
「言葉を喋る犬もいるのです」
ぶら子が恐る恐る体を倒すと、草の影に見えた犬と名乗るその何かは、若い10~20代くらいの男の顔をしていて、ピンクの軍服を身に纏っていた。
「大変失礼を、まさか兵隊さんとはつゆ知らず。どうかお許しを」
慌てて地に頭をつけるも、犬の兵隊さんは何も気にしていない、何も興味がない風な顔をしている。
「私はそんな頭を下げられるような人間ではありません。ただの犬です。あなたが今そこで洗濯をしている服の持ち主に、尻尾を振って飯をもらう、ただの犬です」

 よく見ると、犬の兵隊さんの軍服は今しがたぶら子が洗っていたような薄汚れたものではなく、ピンクもいくばくか濃くビビットなもので、だいぶ等級の上の方であるように感じた。
「犬などとおっしゃらないでください。命をかけて国を守ってくださっているのですから、それ以上に立派なことはありません」
「守りたくて守っているのではないから、犬なのです。ただ命令に従っているだけだから犬なのです。本当は、命令に従ってすらおりません。今日も訓練が怖くて、命令に背いてここにいます。死ぬのが怖くてここにいるのです。飯をもらうときだけ元気に尻尾を振る犬なのです」
そんな、ことが可能なのだろうか、とぶら子は思った。上官の命令に背くなど、この国ではありえない重罪だ。夫は「怖い」と口に出すさえも許されなかった。「怖い」と一度でも言えば、ひどい拷問を受けるからだ。まして戦地から逃げ出そうものなら、敵軍に殺されずとも国に殺されてしまう。
そんな時代に、この兵隊さんが一市民のぶら子に今何を言ったのか、到底理解ができなかった。

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