小説

『オシラサマ異聞』川音夜さり(『オシラサマの伝承』(東北地方))

「尾白様の正体について知っているのは貴殿のみですか?」
「御内儀が自ら話されました。信を置けるから、と。いかにも、手前にはお二人の、おさんの幸福を願う仔細がございます」
「貴殿は、もしや――!?」
「おさんの、父です。激情に駆られて娘を追いやった、愚かな父です」
 奉公人の言葉が上ずる。そして静かに落涙した。
「二十年前、畜生ごときに懸想した娘に対して本気で怒りました。娘を誑かした畜生を本気で叩っ切ろうとしました。しかし、いったいどうして、娘の不幸を願う親がいましょうか。娘の不幸を願える親がいましょうか」
 弥次郎は言葉を失った。信じがたいが、現に尾白様が人にあらざる者だと知っている以上、信じないわけにはいかなかった。
「手前の命も、そう永くはないでしょう。なれど今生の最期まで、お二人を見守ろうと、そう決めたのです」
 奉公人は弥次郎を見据えると、温かいほほ笑みを浮かべた。
「どうか、孝行してやってください。生きている間だけですから」
 奉公人は立ち上がると、一礼して退室した。弥次郎はすっかり目が醒めてしまったが、恐怖心も消え失せていた。百舌鳥のさえずりが聞こえた。もう夜明けが近い。
 弥次郎が身支度を整えて台所へ向かうと、既に御内儀と奉公人が竈に火を起こしていた。出立する旨を伝えると、御内儀は残念そうに眉根を寄せた。朝餉でもと勧めてくる御内儀に謝意を伝え、弥次郎は土間に降りた。
「横田からの帰りに、また寄らせてください。一宿一飯の御礼もしておりませんし」
「お気になさらないでください。久方ぶりに人とお話しできて楽しゅうございました」
「朝靄が深いので、泥濘に足を取られないようお気をつけて」
 御内儀と奉公人は戸口の外まで見送りに出てきた。さらに包頭衣を被った尾白様も姿を見せたので、弥次郎は深々と頭を下げた。尾白様は別れを告げるように袖を振る仕草をした。

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 この集落を抜けるとまた山道になるが、道なりに下れば八坂神社の参道に合流すると奉公人が教えてくれた。弥次郎の足取りは軽かった。集落の最後の一軒を通り過ぎる。振り返ると尾白様たちは道に出てこちらを見送っていた。三人の姿もやがて靄に包まれて見えなくなった。
 一刻ほど歩いた頃、山道を下り終えて開けた川辺に着いた。収穫を終えた田んぼが見える。人里が近い。歩を進めると、確かに八坂神社の鳥居が見えてきた。白木の鳥居だ。そこの石段に白髪の老人が座って休んでいた。老人は弥次郎の姿を認めると訝し気な視線を寄越した。
「お前さん、川上の方から来たのか?」
「ええ、昨晩は尾白様のお屋敷に泊めていただいました」
「尾白様のお屋敷には、もう人は住んでおらんぞ」
 弥次郎は言葉を失った。同時に、ああやはりそうなのかという思いも去来した。
「ではご夫妻と父、いや奉公人の方は……」
「大勢の人を使って生糸をとっていたそうだが、ほとんどの奉公人に暇を与えてしまって、最後は夫婦二人だけで暮らしていたって聞くがなあ。何しろ吾ァが餓鬼の時分に聞いた話だからなあ。とっくに亡くなっていると思うがなあ」
 老人の言葉はほとんど弥次郎の耳に入らなかった。狐狸の類に化かされたか。驟雨で衰弱した故に見た幻か。いや、煙管の甘い香りが鼻孔に残っていた。夢を見ていたとは思えない。老人と別れた弥次郎はいてもたってもいられず、横田の生家に駈け出した。

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