Sというピアニストを、太郎は知らなかった。けれどもそのピアノの音は、太郎の左耳から入ってそのまま全身に流れていった。音楽は太郎のこわばった身体にリズムを生みつけて、ほぐしていった。雪解けのように、身体が溶けて流されていくようだった。なんだか長く息を吐いてみたくなった。
「ねえ、寝ちゃったの?」
ゆめ子の声が聞こえてきて、太郎は自分が目をつぶっていることに気づいた。
「起きてるよ、でももう真っ暗だ」
太郎は目を閉じたまま答えた。「まだロウソクの火がついているわよ」とゆめ子は言った。
「ねえ、同じ夢をみようよ」
「いいよ…どんな夢がいい?」
「私のお父さんに仕返しする夢。だってずっと起こして勉強させたから」
「ああ…僕と同じだ。お父さんは何が嫌いなの?」
「ハト。ハトってどっちにいくのかわからないし、突然飛ぶから嫌なんだって」
「よし、じゃあ巨大なハトになってお父さんのところに行こう」
「いいわね。そしてそのハトが突然しゃべるの。娘を太郎君のところへ嫁がせろって」