小説

『歌舞伎町物語』國分美幸(『遠野物語 寒戸の婆』(岩手県遠野地方))

 三月四日、早朝の歌舞伎町を一人の若い女が白い息を吐きながら、疾走している。白と黒のコントラスが美しい着物の裾をたくし上げ、履き慣れない草履に何度も足を取られ、派手な化粧は汗で滲んでいるが、彼女はお構いなしに必死に走る。
「待て、ゴラァ!」背後から叩きつけられる男たちの怒号が、春のしんとした朝の空気を震わす。女はなりふり構わず、ひたすら歌舞伎町を走る。こんな時に限って、店のひな祭りイベントのため、着物で勤務した自分を激しく呪いそうになる。まだ、ドレスの方が走りやすかったのかもしれない。
そんなことを逡巡していると、ホストと腕を組み、頬を赤らめるデブな客にぶつかりそうになり、一瞬足が止まってしまう。
「なっ、なんなのアンタ!?」
 デブは驚いて、ホストの腕を強く引き寄せる。ホストは少し顔をしかめ、彼女から腕をそっと抜こうとするが、上手く逃れられず。
女は大きく息を吸い、二人をかわし、角を曲がる。そして、何かを決意したように、草履を脱いだ。それを雑居ビルの前に揃えて置き、
「逃げきれたら迎えに来るから」とまじないをかけ、再び走り出した。アスファルトの無慈悲で突き刺すような痛みに耐えながら、ひたすら走っていく。

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