小説

『春燈夜話』九重佑絃(『幽霊飴・子育て幽霊』(京都府))

 扉を叩く消え入りそうな音と同等か、ともすればそれよりもかすかな声量だ。でもまぎれもなく人間の赤ん坊のそれだった。
 私は反射的に、考えるよりも先に起き上がった。ほぼ動かしていなかった体はみしみしと悲鳴を上げて痛みを訴えてきたし、栄養失調気味の頭は急な圧力の変化に耐えかねて今にも倒れ込みそうだったが、意思だけで暗闇の中、脚を動かした。
 狭く小さな部屋なのですぐに玄関へと辿り着く。途中、散乱したさまざまを蹴散らしたが構う余裕はなかった。無機質で冷たい扉の前まで来て、改めて忘れていたおぞけが思い起こされるようでにわかに背筋が寒くなる。これまでは応答するつもりも、またその気力もなかったからこの扉一枚隔てた向こうにいる存在については深く考えなかったし、訪問してくる理由についても同じだった。
 何者であるのだろう、人か、人以外か、何用か。
 想像から急に生まれた黒く大きな影が、扉越しの目の前にまで迫っている妄想に囚われる。指先が冷え、足元が抜けそうになる。
 それでも私はもはや、この扉を開けるしかなかった。今この間もずっと、扉は叩かれ続けていて、同時に、赤ん坊の泣き声も漏れ聞こえているのだ。ぞわぞわと鳥肌が立っていく腕を伸ばして、掴んだ取っ手がやけに冷たく重く感じられた。ゆっくりと、まるで私を取り巻く時間の流れがすべて緩慢になったかのようにゆっくりと、力を込めて扉を開けた。
 不思議と、鼓動は乱れてはいなかった。
 停滞してどんよりとした室内の空気にじんわりと侵入して混ざるように、生ぬるい濡れたような外気が指先から髪先から触れていく。押し開いた扉にもう少し隙間を作ろうとして、その先に何があるかを確認しようとして、取っ手を握り直した。
 でも動けなかった。
 そこに女がいたからだ。

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