あなたは視線を前方に向けたまま、そう返しました。破顔するのではないかと僅かながら期待していたのですが。
夕照の道を折れてしばらく歩くと、路地の先に僕が生まれ育った家が見えてきました。あまり良い思い出のない家は、高校を卒業して以来ですが何も変わった様子は見られません。
あなたの病状を知らされたあの日、僕はかつて母さんが持っていた携帯電話の番号にメールを送りました。しかし、返事はありませんでした。十八年も経つのですから当たり前のことだと納得しました。
「おや、久しぶりの我が家が見えてきたぞ」
長年過ごした家のことは鮮明に覚えているようですね。しかし、あなたのまだらな記憶の中に、僕のことは曖昧にしか残っていないようです。
僕はポケットから鍵を取り出し、慎重に鍵穴に挿しました。随分と年月が経つのに、ぴったりと合ったことに驚きと喜びの感情がこみ上げてきました。
あの頃より少し重くなったように感じる引き戸を開けると、三和土に女性の靴が几帳面に揃えられ、家の中に誰かがいるような気配を感じました。
台所の方から美味しそうな、懐かしい香りが漂ってくるのでした。
「おっ、今日は孝明の大好きなカレーライスみたいだな」
僕は靴を脱ぎ捨てると、一目散に台所へと向かいました。
台所に立つその後ろ姿がゆっくり振り返り、「おかえり」ではなくて申し訳なさそうな口調で「ただいま」と呟くのが聞こえました。
「母さん・・・・・・」
「孝明、ごめんね」
母さんも僕と同じでした。ずっとこの家の鍵を持ち続け、携帯の番号も変えていなかったのです。もしかすると、父さんも重くなった玄関の引き戸をいつまでもそのままにして待っていたのかもしれません。
僕が過去を全て許すには、もう少し時間がかかりそうです。だけど、いつか家族で歩いた夕照の道を、またいつかこの家族で歩きたいと僕は願うのでした。