小説

『幸せは、みかんに包んで』沙月あめ(『蜜柑』)

 あのときと同じように、結局なにも言えないまま、私は診察室を出た。そして先ほどと同じソファにどすんと腰かける。瞬間、先ほどここに座っていたときとは比べ物にならないほどの罪悪感と、いっそう強い恐怖に襲われた。おめでとう。その言葉を聞いたとき、私のしようとしていたことがとても恐ろしく、とんでもなくおぞましいことのように思えた。たったひとりで育てていけるわけがないし、不幸にしてしまうかもしれない。そもそも母親になる資格すらない。それはわかっていたけれど、全部なかったことにするなんて、到底できなかった。

「ほら見て、みかんだ」

 昔なんとなく口にした言葉を、ぼんやりと覚えていることがある。
 癖のある髪を耳の横で二つに結ったおてんば娘と、その母。ふたり手をつなぎながら歩く。花を見つけたり、歌を歌ったり、その日あったことを話したりしながら、ふたりは歩幅をあわせて歩く。いつかの空に煌めく夕日を「みかん」と言った。それがどんなふうに見えたのか、どこで見たのか、それは覚えていないけれど、そう言ったということは、はっきりと覚えている。母は満面の笑みを浮かべてなにか言ったあと、私の手をぎゅっと握った。その笑顔はまぶしくて、繋がれた手は、あたたかかったように思う。

「ほんと、美味しそうね」

 母の優しい声がする。そちらを向くと、そこに母の姿はなかった。代わりに、先ほどの親子が診察を終え、いつのまにか待合室に戻ってきていた。少女は窓の外を眺め、興奮している様子だった。少女の視線の先には、じわじわとオレンジ色に輝く太陽があった。空はピンクとブルーが混ざり合う幻想的な色合いで、先ほどまでは降っていなかったはずの雨が煌めき落ちてくる。窓の四隅に張り付いた水滴を宝石のように照らす太陽は本当にみかんのようで、それは、美しいという言葉にふさわしかった。
 この景色を、私は知っている。かつて母と並んで歩いたときに見た、この景色。いまはっきりと思い出し、刹那に目に焼き付けられた。この少女のように、こんなに美しい景色をそう感じられていたかつての自分が、これ以上ないほど幸せにあふれていたことを思い出す。そう、私は幸せだった。そしてあの表情……今ここにいる少女の母親と同じように、私の幸せを願ってくれていた母もまた、幸せを感じていたはずだ。決して不幸なんかじゃない。私は愛されていた。私を愛してくれた母がいたから、私は、愛しかたを知っている。この景色を、いま私のおなかの中にいる子どもにも見せてあげなくてはならない。春に生まれるこの子に、この八月の終わりの、この景色を見せてあげなくてはならない。この子がこの美しいものを美しいと感じられるよう、慈しみ、育てなくてはならない。そして二人で、幸せにならなくてはならない。そのための努力を、苦労を、いますべて引き受けることができる。そう思った。

「お姉さん、だいじょうぶ?」
 いつのまにかそばに寄ってきた少女が、私の目をまっすぐに見つめて問う。いつのまにか涙が頬を伝っていた。
 大丈夫。この夕日が沈むまでには泣き止める。そう確信した。そして、涙をぬぐって笑うだろう。安心させるように、励ますように、愛おしいものを、愛でるように。

「うん、だいじょうぶ。だいじょうぶよ」

 少女は笑う。それを見て、少女の母親も笑う。母親の腕に抱かれた赤ん坊も、もう泣いてはいなかった。

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