天と地がひっくり返った。てっきり選択権なんてないと思っていた。でも、あった。考えてみれば当たり前だ。節子からアタックすればいい。
案の定、節子はインフルエンザに罹患して六日間の出勤停止となった。人間は暇を持て余すとあれやこれや考えてしまうもので、節子も例外ではなく、あらゆるアッタク方法をシミュレーションした。結果、全パターンで玉と砕けた。だって瀬川と会う予定がないんだもの。
「瀬川さんのお母さんが死ねばお通夜で会えるんだけど……我ながら恐ろしいことを言うな」
節子はニャンコをつつきながらつぶやいた。
「亡くなったんだよ」
会社のトイレの個室から、千奈美が瀬川の母の死を報せる。
本来なら、タンポンを引き抜きながら人の死を告げた千奈美に腹を立てるところ。けれど節子は「お母さんが死ねば」なんて言った自分に腹を立てた。
「インフルだってさ」
千奈美が付け加えた。
自分がインフルエンザをうつしたのだ、自分が殺したのだ。節子は終日、喉の渇きを感じた。飲んでも飲んでも潤うことはなく、唇が乾く。瀬川の母親の乾いた唇を思い浮かべて「彼女の呪いかも知れない」と千奈美に言ったら、バカ扱いされた。
帰宅した節子は冷蔵庫にまっしぐら、炭酸水を飲む。瀬川に貰った物と同じ銘柄なのに可もなく不可もない味。喉も渇いたまま。
にゃん。
節子はニャンコを抱いて、
「ちょっと潤してくる」
瀬川は三回目の呼び鈴で顔を出して「ウチ、無宗教だから線香とかないよ」とあくびをした。相変わらず寝ぐせ頭にジャージ。まだ挨拶すらしていない 節子を和室に連れてゆく。
和室はがらんどう。畳にベッド脚の跡があるだけ。
「お袋にインフルエンザうつしちゃってさ。原さんにもうつしちゃったかな?」
節子がうつしたわけではなかったと判明した。けれど人が亡くなった手前、喜べない。
「井原です」
節子は覇気なく返した。
「飲む?」
会話を成立させる気のない瀬川が、炭酸水を差し出す。節子はフタを空ける。拍子に炭酸水があふれ出し、畳にぶちまけた。
「ごめんなさい!」
「全然、全然」
瀬川は脱いだジャージで拭き始める。拭いて拭いて、畳の凹みを触って動きを止める。今までこらえていた悲しみがあふれ出ている。
そっと、節子は瀬川の背中に触れた。
節子、三十七。ひょっこり恋人できた。相手は瀬川、四十八。二人はかたく抱き合って、笑った。