小説

『シコメとネグセ』永佑輔(『八百屋お七』井原西鶴『破戒』島崎藤村)

「続いてのメールです。ラジオネーム、練馬大根バリボーリさんから」
 ラジオパーソナリティが単細胞を絵に描いたようなラジオネームを読み上げたときだった。
「痰だよ、痰」
 いつの間にか帰って来ていた瀬川が、ポスターケースを無造作に放りながら言った。
「タン!?」
節子は舌を飲み込んでしまったのだと思ってえらく狼狽した。けれど瀬川が慣れた手つきで痰吸引器を使ったので、勘違いだと気づいて顔は真っ赤っか。
 瀬川は痰の吸引を終えると、母親の腹から出ている管にチューブをつなげて栄養剤を流し込む。それから母親の髪を優しく整える。
「練馬大根バリボーリって俺なんだ」
 瀬川がいきなり振り返ったので、節子は慌てて視線をそらす。
「うう」 
 母親がまた何かを訴えている。瀬川は母親の乾いた唇に軟膏を塗った。
 気づけば、さっきまで乾いていたはずの節子の目も潤っている。そして確信する。うん、好きだ。

 電車に揺られながら持ち帰った炭酸水を飲む。世界で一番美味しい飲み物がここにあった。そして見えざる峠なんてなかった。行きの電車では畑しか気にならなかったのに、帰りの電車では瀬川のことばかりを考えていた。瀬川のことばかりを考えていたことすら、瀬川のことを考えていて忘れてしまったほど。
 スマホが鳴る。『うどん作りに来いや』と千奈美。『インフルうつるからイヤ』と返す。『手遅れだよ。毎日ベチャクチャ喋ってんだから』と返って来る。節子はそれ以上の反論をやめて、うどんを作る意志を示した。それもこれも千奈美から瀬川のことを聞き出すため。

 ふー、千奈美はウイルスをまき散らしているという自覚のないまま、うどんを冷ましつつ瀬川について語る。
 かつて瀬川は大手デザイン事務所に勤めていたが、十五年前、母親のパーキンソン病悪化に伴ってフリーランスとなり、練馬の実家に戻った。それからは仕事と介護に追われる日々。恋人を作る暇もなく、仕事以外に使うリソースは介護に全振りしている。
 独身だと知った節子は、饒舌になり、瀬川から貰った炭酸水の美味しさを説く。
「付き合っちゃえ。やっぱうどんにコシはいらないね」
 千奈美にとって、節子が瀬川と付き合うことなどうどんのコシと同レベルのことらしい。
 恋する三十七歳は今、どんな顔をしているのだろう。節子はうどんの汁に映る自分の顔を見た。漫画じゃあるまいし、うどん汁に映るわけがない。
「ふやけた天かすが私みたい」
と、節子はつぶやいた。千奈美は無視した。節子も節子で、自分でも何のこっちゃ意味が分からなかった。
「付き合っちゃえ」
 千奈美は汁でサプリを流し込み、ゲップ混じりに前言を繰り返した。
そりゃ節子だって付き合いたい。だけど瀬川が選んでくれるはずがない。
「節子が選択していいんだよ」

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