小説

『鬼婆』前田涼也(『鬼婆伝説』(福島県二本松市))

 警察署を出て車を走らせると、伊藤は左折して大通りに出た。自宅に向かっている運転席で、さっきまで取り調べをしていた女のことを考えていた。山と城しかないこの田舎で警察官として勤めて十二年、殺人を自首しに来た人間は初めてだった。

 伊藤が取調室に入ると、白髪の長い女が赤いセーターを着て座っていた。女に名前を尋ねると、森千夜です、と俯きながら、しかしはっきりとした声で答えた。
「私は人の命を奪ってしまいました」
 森千夜はそういうと、顔をこちらに向けた。こけた頬の上にある両目は落ちてしまいそうなほど大きく、黒目は居場所が定まらないかの様に左右に動き続けていた。

 森千夜の供述の内容はこうだった。

 三十年前、千夜は東京で製薬会社の研究員として働いていた。しかし、人間関係のゴタゴタで退職したのを機に、ここから数十キロ離れた山にある祖父母の空き家に引っ越した。住み始めてすぐ、千夜は家を改築して民宿を始めた。民宿が繁盛することはなかったが、千夜一人が生活できるくらいの客数は確保できていた。

 移住してから五年後の夏、四十代後半くらいの痩せた男が民宿の扉を開いた。
「ごめんください。道に迷ったのですが、観千寺はどこでしょうか」
 鈴木吉蔵、と名乗った男は、静岡から寺々を廻る旅をしていると説明した。千夜が簡単な地図を描いて渡すと、何度も頭を下げながらレンタカーに乗り込んで出発した。
 その夜、吉蔵は再び千夜の民宿を訪れた。吉蔵は酒を呑むと上機嫌になり、旅先での体験を語った。千夜も民宿に来た珍客の話をし、お互い笑いあった。結局、吉蔵は次の晩も泊まった。この日から二人の同居生活が始まった。

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