小説

『鬼婆』前田涼也(『鬼婆伝説』(福島県二本松市))

 何も変わらない日常が続き、今年も冬が訪れた。いつもの様に残業を終えて立ち上がろうとした時、影山が伊藤のデスクに週刊誌を置いた。影山は左右不対称な笑みを浮かべながら、これ読んでみ、と囁いた。

 伊藤は車に乗り込むと、週刊誌を開いた。真ん中くらいのページに、ご丁寧にも付箋が貼られていた。付箋のページを開くと、心拍数が上がった。駐車場には誰もいないのに、ここで読んではいけない気がして車を発進した。
 コンビニに車を停めると、急いで週刊誌を開いた。記事は見開き一ページで、阿部早和子の生い立ちについて書かれていた。記事の中で、この地域が起源であるという娘を殺した老婆の伝説になぞらえて、阿部早和子は鬼婆というあだ名が付けられていた。

「生き別れた娘を殺害 鬼婆・阿部早和子の半生」
 なんとおぞましい事件であろうか。自然豊かな風景に囲まれた古風な民宿で、佐田智代子さんは殺害された。その犯人は、なんと生き別れた母である阿部早和子容疑者であった。(中略)鬼婆こと早和子は、三十八歳で智代子さんを身籠った。智代子さんの父とは既に離婚していた早和子は、一人で産み育てることを決意していたが、胎児が未熟児で流産の可能性が高いと医師に告げられた。絶望に苛まれた早和子は、新宿にある占い師を訪ねた。占い師に「お腹の子供の為に、若いエキスをたくさん吸いなさい」と助言された早和子は、当時の自宅付近で妊婦を誘拐し、殺害した。そして妊婦の腹から胎児を取り出し、あろうことか肝臓を煮て食したという。その数か月後、早和子は無事智代子さんを出産した。しかし、虚弱児であった我が子の成長を心配した早和子は、その後も二人の妊婦を殺害した。指名手配犯となった早和子は、逮捕を恐れて智代子さんを孤児施設に預け、自身はすべてを捨てて〇〇県の山に移住した。(中略)早和子の過去に気付いていた吉蔵さんは、それらを日記に書き残していた。早和子は、この日記を読んだ智代子さんが自身の悪事を知ってしまったことに焦ったのだろう。現在も捜索が行われているが、日記も吉蔵さんの遺体もまだ見つかっていないという。(中略)もし偶然訪れた宿の女将が殺人犯だったら、と想像すると背筋が凍る思いである。一刻も早く、事件の真相が解明されることを願う。

 伊藤は週刊誌を閉じて、助手席に置いた。この手の記事のほとんどがそうである様に、すべてが真実だと思えばそう見えるし、嘘だと思えば事実無根ともとれる、そんな内容だった。
 記事を読んでいる間ずっと呼吸をしていなかったらしく、酸素が薄く感じられた。車の外に出て、灰皿の脇で煙草をくわえた。
 煙草を一吸いすると、生き返った様な心地がした。そして、自首しに来た時の女の姿を思い出そうとした。約一年前の記憶は薄れており、ほとんど思い出せなかったが、せわしなく動く黒目だけが目の前に現れた。
 まだ慣れない冷たい風が吹き、冬の訪れを改めて感じた。顔を上げて息を吐くと、白い空気の塊が真っ黒な山しかない景色に吸い込まれていった。

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