「会えないかな」
そう電話越しに聞いたのは、あさみが旅行会社に就職してまる2年が過ぎた頃だった。ちょうどニューヨークのオークションでえりかの描いた油彩画が高額の落札価格を得たというニュースを目にした直後だったので、あさみは最初誰かのイタズラかとさえ思った。連絡など一切しなくなって4年も経っていたから、なおさらだった。
会いに行ったのは、興味だったのか、下心だったのか。とにかく純粋な友情ではないことだけは確かだった。えりかは三浦の海の近くの小さなアパートの一室にいた。
「今、色々ごたついてて」
痩せこけたえりかの顔は、年を重ねただけではない残酷な何かが刻み込まれた風貌をしていて、学生時代の溌剌さは微塵も感じられなかった。
部屋の中には家具など一切なく、あるのはクッションひとつと毛布と水の入ったペットボトルが1本だけ。画帳も絵筆も鉛筆1本すらもなかった。世界に名を轟かせるアーティストの居室とはとうてい思えない。
「どうしたの」
「昔、日本で1番深い湖の話をしたでしょ。あれってどこだっけ」
「田沢湖」
「どこにあるの」
「秋田だけど、それがどうかしたの」
秋田というのが意外だったのか、えりかはふうんと言って黙った。部屋には常に波の音が入ってきて、ずっといると体が波と同化するような錯覚を覚えた。
「私、もう限界かもしれない」
振り返ってえりかは、ぽろりと大粒の涙をこぼした。その後はもう子供のように泣きじゃくった。なにがあったのかは分からなかったが、あさみはただえりかの細くなった身体を抱き締めることしかできなかった。ふたりの身体を貫いて通り過ぎていくように、波の音がずっと聞こえた。
※※
「それがら、辰子はおっきぐなった泉のそごさ沈んでもう出でこねぐなったど。それが今の田沢湖だはぁ」
「婆さま、なんでふたりは竜になっちゃったんだろう」
「わがらね。だけども欲こいじゃ駄目だんだびょん」
「友達の魚を独り占めしたり、ずっときれいでいたいって思ったり?」
「はあ、誰でもやるごとだなはぁ」お婆さんは笑って言うと、居間のストーブで暖を取っていたお爺さんに怒鳴るように話しかけた。「爺さん、明日田沢湖の方さいげるべが」
「ああ、除雪車ぁうごぐがら、なんもだべ」
「んだが」
「んだ」
「んだら、まんず」
お婆さんは隣の間に床の用意をしてくれた。「さびがら(寒いから)」といってタオルを巻いた湯たんぽも布団の中に入れてくれた。熱いお風呂に入って、ストーブと囲炉裏と湯たんぽで暖められた布団に入ると、雪深い夜の中にいることを忘れてしまう。
灯を落として暗く静かになった部屋の中は、時々音を立てる炭のぱちという音以外なにも聞こえなかった。
明日、田沢湖に行ったら、もう帰らない。
あさみは自分が本当に、八郎太郎になったように思えた。田沢湖は受け入れてくれるだろうか。
そんな事を考えていたら、いつの間にか眠りに入っていた。