なぜか何気ない会話がいつまでたっても忘れられなかった。
囲炉裏の暖気と、炭火のはぜる音と、外の暗闇に舞う雪があさみを無理にノスタルジーに引きずり込むのかもしれなかった。それでももう、東京に帰る気はなかった。
「したら、喉乾いで乾いで、なんともでぎねぐなってょ。川の水どご、陽が暮れるまでずぅっと飲んだっけ。ほんだら……」
八郎太郎は竜の姿に変わっていた。青森との県境の十和田湖に残る伝説だ。その後、八郎太郎は南祖坊というお坊さんとの戦いに破れてそこを追われる。そして逃げ惑う各地で負けては逃げてを繰り返す。
まるでワタシのようだと、あさみは思った。思い上がって、負けて、逃げる。八郎太郎の終いのすみかとなった八郎潟も、昭和初期の干拓事業で埋められて、今は見る影もない。現代になってもなお、八郎太郎に安住の地は与えられない。
負け始めたのは、19歳のコンクールからだった。今まで苦もなく通っていた予選が全く通らなくなった。通っても本戦で最下位が定位置になり、最後には人前でピアノを弾くのが怖くなった。今まで馬鹿にしていた人たちに後ろ指を指されているようで、たまらなくなって学校を辞めた。そのあと旅行会社に就職したのも、なるべく東京にいたくなかったからだった。
「あさみは、まだいいよ。やり直しがきくから」
そう言ったえりかをあさみは心底嫌いになった。天から与えられた”才能”でのし上がったえりかには、毎日毎日指の形が変わるほど練習し続ける人の気持ちなど分からないだろう。負けるとなにもかも奪われてしまう恐怖など経験したことはないだろう。親からすら見放される孤独を感じたことなどないだろう。
あさみは先月、2年半勤めた旅行会社を退職した。くすくす笑われているような同僚の目線に、耐えられなくなったからだった。
ピアノを弾けなくなったあさみに居場所はなかった。
「今では八郎太郎は、冬になるど田沢湖さ来て、辰子ど一緒にふけぇ湖のそごさひゃるんだど。んだがら、田沢湖は冬になっても凍らねんだょ」
あさみは鍋の後片付けをするお婆さんの背中をじっと見ていた。玄関の方からは雪かきから帰ってきたお爺さんが、土間で体についた雪を払う様子が音だけで聞こえた。深く吐く息の音が、外の寒さを身に沁みさせた。
「ねえ、婆さま、辰子はなんで竜になっちゃったんだっけ」
「ずっと、めんこいまんまでいるようにど、願さかげたばはあ、八郎太郎どおんなしようになってしまったのょ」
「八郎太郎とおんなじ?」
「泉の水だば、飲んで飲んで飲むうぢ竜さなったのだょ」
あさみはまたえりかの事を思い出していた。
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