小説

『冬の湖』千田義行(『三湖伝説(八郎太郎と辰子姫)』(秋田県大潟市、仙北市他)

 お婆さんは囲炉裏の炎をほっぺたにちらちら宿しながら、「”語り部”だなんて、やめでけれでゃ」とかわいく手を振った。あさみは子供のように膝を抱えて、話しが始まるのを待った。
 外はいったん小康状態だった雪がまた降り始めていて、大粒のボタ雪が窓の外に見えた。
 「こりゃ明日、田沢湖まで行げねがもしれねど」としょっつる鍋をおたまでかき混ぜながらお婆さんは言った。お椀によそられた、あつあつのしょっつる鍋は少しタイ料理にも似た香りがして、口にすると芯から暖まった。子持ちのハタハタのぶちぶちとした食感がくせになる。ツアーコンダクターとして、秋田に来ていた頃に覚えた大好きな郷土料理だ。角館のこの民宿もそこにいるこのかわいい語り部のお婆さんも、その時期に覚えたものだった。この片道だけの旅を決意した時の目的地のひとつだ。
 「大潟村にはむがし、でぇっけ湖があってょ、八郎潟って言ったなしゃ」お婆さんは外の雪に視線を向けながら話し始めた。「そごさ、八郎太郎って竜が住んでたんだど」
 あさみはふうふうとお椀を吹きながら、何度も聞いた八郎太郎と辰子姫の話しの始まりに耳を傾けた。
 「もう、限界かもしれない」
 不意に、そう言ってぽろりと涙をこぼしたえりかの顔が浮かんで鼻の奥がつんとした。
 「んだら、まんず」お婆さんの優しい声は、今のあさみには囲炉裏の炎より暖かく感じた。

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 えりかと出会ったのはあさみが一番ツンケンしていた時期で、よくもまあ個性の強いワタシとえりかが仲良くなったものだと、あさみは常々不思議に感じた。
 あさみはピアノを小さい頃から弾いていて、なんの疑いもなく自分は将来ピアニストになるのだと信じ切っていた。リタイアしていく友人たちを言葉では「もったいない」とか、「諦めちゃダメ」とか言いながら内心では当然だろうと思っていた。小学生の頃には、将来の椅子の数は限られていてそこにはワタシが座るのだから他は早めに諦めるのが幸せだろうとさえ考えていた。それは東京の学校に転校しても変わらなかった。
 同学年のえりかは画家だった。芸術大学時代に出会った頃から画家志望ではなく、すでに画家として名が売れていて時々マスコミの取材を受けたりしていた。音大と芸大の交流会という名の飲み会があると聞いたとき、メンバーにえりかの名が出ただけで場の温度が2〜3度上がったような盛り上がりになったのを覚えている。自分に与えられていたのは”才能”ではなかったのかもしれないとあさみが思い始めたのは、この頃からだった。
 「田沢湖?」
 「そう、田沢湖の近く。もう家族みんなで引越して来て、あっちには誰もいないから、実家ではないけど」
 初対面のふたりの会話は、あさみの故郷の話というよりは「田沢湖」の話だった。
 「え? 日本で1番深いの? 広いんじゃなく、深いの? それ、日本人、誰も知らなくない?」
 「ねえ、知らないよね。423メートルもあるんだって。笑うよね」
 「ええ! 東京タワー、すっぽり沈んじゃうじゃん」
 「たしかに」

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